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アグアス・カリエンテス(Aguas Calientes)→クスコ(Cusco)
2005.10.15 |
ペルー国内移動 |
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移動内容 |
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12:00-13:00 |
アグアス・カリエンテの駅に停車していた列車に乗り込み待機。 |
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13:00-13:56
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アグアス・カリエンテス駅から列車で82km地点まで移動
クスコとアグアス・カリエンテスの往復US$65.46/人 by 現金 |
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14:17-14:45
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82km地点から76km地点までバスで移動
※通常クスコまで直通。料金は当然列車代に含まれる。 |
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14:55-15:10
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76km地点からオリャンタイタンボまで列車で移動した後、降ろされる。
※通常クスコまで直通。料金は当然列車代に含まれる。 |
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15:52-16:20
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7オリャンタイタンボからウルバンバまでコンビで移動。
※通常クスコまで直通。料金は当然列車代に含まれるはずだが
コンビ運賃 S2(=US$0.59)/人 by 現金 |
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16:41-18:40
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ウルバンバからクスコまでバスで移動。
※通常クスコまで直通。料金は当然列車代に含まれるはずだが
コンビ運賃 S3(=US$0.89)/人 by 現金。 |
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※2005.10現在、US$1= S3.37(ペルーソル)で計算しています。 |
予定の列車は15時55分発だったが、土砂崩れでダイヤが乱れに乱れて、ちゃんと帰れるのかどうかわからなかった。
昨日の夜、駅に行って確認した情報によると、今日我々が乗る予定の列車は夜7時に出発することになっているということだった。もっと早くクスコに帰りたいなら、朝10時半、途中のオリャンタイタンボまででいいなら午後1時半発があると言われていた。
今日、マチュピチュで行きの列車で知り合ったアメリカ人のチャリダーの情報では、オリャンタイタンボ行きの列車が7〜8本運行するはずという情報。
日本人の女の子の情報では、自分達のガイドに午後2時には駅に来るように言われていた。
そして最有力情報が、最後にマチュピチュから降りてくるバスで知り合ったスペイン人の情報。彼女達はツアーで来ていて、ガイドに午後1
時に列車が出るといわれていた。
我々は最後のスペイン人の情報を信じて、マチュピチュから降りるなり駅に向かった。時刻は12時少し前。門は閉ざされていて、中には人がたくさんいた。門の前に行列を作って、他の人も待っている。我々も行列に加わった。12時に門が開き、並んでいた人はどっと駅舎に向かった。私達も急げ、急げ。
駅舎に入ると中には列車のチケットを握り締めた観光客がいた。いつから待っていたのだろうか?やがて列車が到着し、乗客が降りてきた。列車が空になって、人々が殺到しようと集まると、「チケットにAと記載された人だけ入ってください」と案内された。Aと手書きされたチケットを持つ人の列車は朝6時発予定のものらしかった。「私がAのチケットです」と、何故か皆チケットを持った腕を上げている。まるで満州からの引き揚げ船にでも乗るかのようだった(たぶんこんな感じだったのだろうと勝手に推測)。
Aのチケットの人が列車に納まると、それ以外の人の番だった。ここに来る時に学んだ「案内の言うことを忠実に聞いていてはいけない」という教訓を元に、とにかくチケットを案内に見せて強行突破。自分の列車のカーゴはFだったが、F車輌にはどう見てもローカルの人しか並んでいないので、勝手に空いている車輌に入り込んで座った。座ってしまえばこっちのものだ。やれやれと出発を待っていると、向かいにNYから来たという熟年夫婦が座った。彼らは、我々よりも上位クラスの列車、ビスタ・ドームのチケットを持っている人たちだった。「バックパッカークラスの我々と一緒になって、何だかお気の毒ですねぇ」と言うと、「いやいや、こういう時はそんなの関係ないですよ」と笑って答えてくれた。
この列車は来る時は満員で立って来たので、景色は全く見ていなかったが、今回はよく見えた。列車ぎりぎりと思える幅の線路の片側は、雨のせいで濁流となった川が流れていて、その向こうが山になっている。美しい車窓風景だった。やがて82km地点に到達し、列車を降ろされた。これは、来た時と同じ経路だ。ということは、まだ土砂崩れは修復されていないということになる。列車を降りて、バスが駐車されている方に向かっていく。私達が乗ってきた列車には、マチュピチュに向かおうという人が列をなしていた。
ここでも駐車場を前にして長い行列ができていた。鉄則に従って、なぜ行列になっているのかなどは聞かずに、とにかく動いている人の波にくっついて、とにかく駐車場の中にもぐりこんだ。動いている人の波は、実はツアーの人たちで、ツアー会社が仕立てたバスが用意されていて、そこに乗り込んでいっているのだった。我々が乗ろうとすると「これはプライベートだから」と乗車を拒否された。ま、当たり前だ。じゃぁ、パブリックの人はどこに乗ればいいのか、と共に列にくっついて来た白人が聞いてくれた。バスに番号がかいてあるのがパブリックらしい。ツアー会社以外の人は、駐車場の門の外に締め出されていたが、我々のようにすり抜けて来た人は、番号の書いてあるバスの前に並んでいった。
やがて、駐車場が開門されパブリックの人が入ると同時に、番号つきのバスも扉を開けて乗客を入れ始めた。やはり、こうした状況では統制が取れないので、すり抜けた者勝ちのようになっている。来る時に真面目に対応していて苦い思いをした我々は、今回はうまくバスに乗り込むことができた。まぁ、今回は多くのバスが来ていたので、焦らなくてもよかったようだったが。ここ2日くらいに、大分体制ができているように見えた。この駐車場でもあまり待つこともなく、出発することができた。
バスに乗ること約30分。のどかな農村風景の中を進む。本来なら通らない道。順調にクスコに向かっているし、苦痛どころかちょっと楽しいくらいだった。バスを降りて順調に列車に乗り込む。列車はコロンビア人の女性と向かい合わせだった。他には修学旅行生のペルー人女子高生がいっぱい。オリャンタイタンボに到着するまでの数十分、歌うわ、笑うわ、写真とりまくるわで、女子高生は世界共通のパワーを持っているということを、否応なくわからされた。
さて、クスコまでのチケットを持っているが列車はオリャンタイタンボまでしか行かない。残りのクスコまでは勝手に帰ってください、ということになっていると、コロンビア人の女性から聞かされた。やっぱり、そうか。
しかし、オリャンタイタンボの列車の駅からバスが出ていないとは言われていなかった。これ幸いとタクシー運転手がクスコまで割高な値段を言って近寄ってくる。ペルー人と思われる女性と白人女性が、駅員に向かって「バスがないとは一体どういうことか」とくってかかっている。さて駅は臨時でバスを出すのだろうか?押し問答の末、ある者は諦めてタクシーで去り、ある者はいずこかへ歩いて消えていった。先ほどのコロンビアの女性はサッサとタクシーで走り去っていた。偶然一緒になった日本人女性2人組みが、クスコから迎えが来る予定だったが、予定よりも早く到着してしまったので、クスコに連絡するという。有料で同乗させてもらえるように交渉してくれるように頼んで、電話が終わるのを待っていたら、辺りには誰もいなくなってしまった。
考えてみたら、今からクスコを出発する車を待つより、何か他に手があるはず。ということで、先ほどの喧騒がおさまった駅に戻り、駅員に再度バスの事を聞くと、「ここからのバスはない」の一点張り。ところが、その近くにいて英語ができるペルー人らしき女性が、「ここから10分ほど歩いた広場の近くから市バスが出ていますよ」と教えてくれた。憎らしいことに、それを聞いた駅員は、さも親切そうに「クスコまでの直通がなくても、ウルバンバまで行けばクスコ行きに接続していますから」と付け加えるではないか。アホか?最初から、その情報を教えろっつーの。気の利かない駅員にあきれ返りながらも、帰れる目処が立ったので、先ほどの日本人女性に礼をいって断り、広場に向かって歩き始めた。
歩き始めて数分すると、左手の山の上に遺跡が見えてきた。そうなのだ。オリャンタイタンボにもインカの遺跡があるのだった。
ガイドブックを見ると、この遺跡もなかなか見ごたえがあって面白そうだ。しかし、時刻は午後3時半をまわっていた。ここから順調に帰ってもクスコまで3時間はかかるだろう。無理だった。残念ながら、遠目から見るだけでオリャンタイタンボはお終いにするしかなかった。まぁ、もともと列車で通過する予定だったし、遠めからでも見られただけで良しとしよう。
遺跡を過ぎて更に進むと、少し賑やかになってきて広場が見えた。地元の人にクスコ行きのバスを聞くと、ウルバンバ行きならまだあるだろうと、ウルバンバ行きのバス停の場所を教えてくれた。広場から1ブロック右手先といった所だった。周りはほとんど地元の人ばかりで、観光客はいなかった。恐ろしくカラフルな民族衣装をまとった男性などもいて、それはそれで物珍しかった。
バスは通常なら13人乗りといったバンだったが、運転席の後ろもベンチになっていて、無理やり16人乗りにしていた。ぎっしりと人が詰まったところで出発。
それにしてもオリャンタイタンボは、周囲のゴツゴツとした岩山が抜けるような青空に映えて、どこに目をやっても美しい村だった。遺跡の他には何もないかもしれないが、この雄大な景色を楽しみに、ここに宿泊する人がいるというのもうなずけると思った。
バスが出てすぐに狭い道で、大型のトラックとすれ違うことになった。大型トラックが通り過ぎるまでバスは待てばよかったのに、この狭い道につっこんでしまった。大型トラックの運転手は、口をへの字に曲げながら、バスの横っ腹にサイドミラーでガリガリと傷をつけながらすれ違ってしまった。バスの運転手は、怒りまくって呪いの言葉みたいなのをどなったが、バスから降りて文句をいうでもなく、泣き寝入りするらしかった。まぁ、君がつっこんで行くから悪いんだよね、というしかない状況だった。こうしたバスは、個人で車を購入して、バスのライセンスを取得して経営しているのだろうと思われる。この修理費は、このドライバーが持つしかないだろう。かくしてバスの運転手は、客を詰め込めるだけ拾おうと覚悟したに違いない。
ぎゅうぎゅうに座ったバスにもかかわらず、ウルバンバへの道のりでどんどんお客さんを乗せていく。とうとう立ち客も出始めた。立ち客といっても、普通のバンなので立てない。椅子がないので立って背中をかなりかがめるという、不自然な姿勢である。結局、運転手を含めて18人くらい乗せたところで、ようやく満員と判断したようだった。そうそう、さっきの車の修理代を稼ぐには、あと何ヶ月あるいは何年、こうやってお客が詰め込まれていくことだろう。やれやれ。
狭い車内で移動するのは、体が疲れるものだ。30分程の乗車だったが、どっと疲れた。後ろに座っていた親切そうな白人系の現地人が、ウルバンバからクスコへの行き方を教えてあげるという。バスを降りて、建物を挟んで向かいの空き地がクスコ行きのバスらしかった。若い男性が「はい、クスコ行きだよ、そこでチケットを買って乗って、乗って」と言うので、チケットを買おうとしたら、先ほどの白人男性が「そのバスは、すぐ出るけれど、運賃がとても高いよ。10ソルもかかるバスだよ」と言う。そして、「ちょっと待っててね」とどこかに消えて、しばらくして戻って来て言うには、「6人揃えばクスコまで30ソルで行くタクシーがあるのだが」と提案してきた。そして、「3ソルでクスコまで行けるバスは、あと30分後に出る予定だが、あてにはならない」と加えた。ふーむ、選択肢は3つだ。
一人15ソルでタクシーに乗るか、10ソルのバスで帰るか、3ソルのバスを待つのか。タクシーの運転手は、誘いモードでドアを開けてこちらを見ている。「ちょっと考えますわ」と白人の男性に告げると、「じゃ、そのいずれかですね、では良い旅を」と言って男性は去っていった。
そうこうするうちに、オリャンタイタンボで出会った日本人2人組みがタクシーで到着。知り合いに連絡したら、自力でクスコまで来てくれといわれたそうだ。4人いればタクシーが安くなると思って、彼女達にもちかけたらOK。ということで、タクシーのいた場所に戻ると、タクシーはいなくなっていた。あらあら?そこで、さっき高いと言われたバスのチケット窓口に行って値段を聞くと3ソルだという。何だ、これが安いバスじゃないか。
白人男性は親切だったのか?それともタクシー運転手とつるんで悪事を働こうとしていたのか?今となっては定かではないが、あそこでタクシーに乗らなくてよかったという気がしている。
こんどのバスは、大型バスだった。よかった。席も決まっている。4人の日本人はこれでクスコに帰れることになり、ホッとした。
オリャンタイタンボからクスコへは高度が上がっていく。バスは、山を上がったり下がったりしながらも、徐々に高度を上げているようだった。
いくつかの村を通り、地元の人が乗ってきたり降りたりしていった。道路の脇の緩やかな丘陵は畑になっていて、牛や羊が放牧されていたりもした。また、眼下に村があり、その向こうに黒ずんだ山々が並び、もっとずっと遠くには万年雪を湛えたアンデスの高山も垣間見える場合もあり、豊かなアンデス地方の風景を思う存分に楽しめるルートだった。途中の村からは、白人バックパッカーが乗り込んできて、すぐ次の村で降りていった。この時間に降りるということは、名もなき村に宿泊するのだろうか?本当に自由に旅行をしている人たちだと感心した。
やがて、チンチェーロという美しい教会で観光客が訪れる村を過ぎるころには、日も沈んでいった。山に沈む太陽とともに、変りゆく夕刻の空を楽しみながら、日は暮れていった。
とっぷりと日も暮れた午後6時過ぎ、眼下に街の明かりが見えてきた。クスコだ。帰れるとはわかっていたが、実際にオレンジ色に温かく光る街の明かりが見えた時は、ホッとした。それからほどなく、クスコの街はずれにある小さなバスターミナルに到着。中心地までは人通りの多いメインストリートを歩いて15分ほどだった。こうして、土砂崩れによって思わぬルートで往復したマチュピチュへの旅は、無事に終了した。
喜ばしいことに、マチュピチュから戻ってきたら、高山病の症状がすっかり回復。やっと快適なクスコでの滞在ができるようになっていた。
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