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テテ(Tete)→ベイラ(Beira)
2007.06.30 |
モザンビーク国内移動 |
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移動内容 |
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03:30-:03:40 |
宿からバスターミナルまで徒歩で移動 |
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04:45-15:05 |
テテからベイラまで大型バスで移動
バス運賃 Mtc380(=US$14.69) by 現金 |
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15:05-15:15 |
バスが到着したところから宿を探してぐるぐると歩き回り発見。実はバスが到着した場所の目の前だった。 |
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※2007.07.02現在、US$1= Mtc25.87で計算。Mtcはモザンビーク・(ニュー)メティカ。 |
怒涛の移動3日目だ。
テテからヴィランクーロに行きたかった。
地図を見ると、途中一泊するならチモイヨChimoiyoがいいのだろうと思ったのだが、私たちが持っているロンプラのAfrica
on a shoestringの情報によるとチモイヨからヴィランクーロ行きのバスが出ているかどうかが書かれていない一方で、ベイラからはヴィランクーロ行きのバスが出ていると書かれていた。
チモイヨChimoiyoはトラックの交通の要所とは書かれていたが公共の交通機関のハブはベイラのように感じ取った私たちはベイラに向かうことを決めたのだった。
ヴィランクーロに到着してから、これは大間違いだったことがわかったが後の祭り。大抵の旅行者は、テテからベイラよりも近いチモイヨに来て、快適なバックパッカー宿ピンク・パパイヤPink
Papaya(ドミトリーUS$8、ダブルUS$24)に宿泊して、翌日ヴィランクーロに楽々と来ていたのだ。よくわかっていなかった私たちは、より遠いベイラまで行き、死んだような町の超汚いのに安くもない宿に宿泊し、翌日チモイヨ経由でヴィランクーロに向かう羽目になったのだった。情報収集不足だった。
とにかくベイラ。
もうベイラに行くと決めていた私たちは、テテに到着した日の夕方、テテのバスターミナルに向かった。事務所やチケット販売窓口なんてものはなく、停車しているバスの入り口近くにテーブルと椅子を据えて男が3人。それがチケット販売事務所だった。
明日の予約の用紙を見せてもらうと、もう席は埋まりつつある。私たちも銀行で現金を引き出してきてチケットを購入した。このバスは客席の下に荷物を収納するスペースがなく、荷物はバスの屋根に据えた荷物枠内に入れるようになっていた。枠も付いているし、シートで包むようにしているので、これでいけるだろう。しかし、バスの上にあげないとは、やれやれな作業だ。
翌30日の出発時刻は早朝の4時半。4時までに来てくれと言われて、朝3時半に宿を出発した。
未明なので、どんな輩が徘徊しているかと不安もあったのだが、宿からバスターミナルまで10分くらいの徒歩の道のりは、街頭もついており、歩いている人はそれなりに用事を抱えている風な人で、用もなく歩いているような怪しげな人影は1人くらいしか見なかった。まぁ、この距離で1人見かけたというのは、ちょっと危ないということになるかもしれないが。
バスターミナルに到着すると、既に多くの乗客が集まってここだけは昼間のにぎやかさだった。昨日見た通り、次々と荷物が引き上げられていく。夫が荷物をあげようとすると、すかさず手を貸してくる者がいてあっという間に荷物は屋根に引き上げられてしまった。しかし、例のごとくこの男は荷物上げ代金を請求してくる。しかもスーツケース2つでUS$100とか気の狂った金額を。到底応じられないとけんか腰になっていく中で、乗客の一人でモザンビーク在住20年のパキスタン人が仲介に入ってくれてMtc10Mtc×2個分(US$0.77)で手を打つことにした。パキスタン人の男性がいなかったら、どうなっていたことか。やはりモザンビーク北部はちょっと荒れた雰囲気を感じた。
バスは4時45分に出発。
乗り込むなり1時間ほどグーッと眠り込んで目を覚ますと、暁のオレンジ色を背景にバオバブの木。
モザンビークの東側に横たわるインド洋を隔ててあるマダガスカル島のおはこであるバオバブの木は、遠い昔に地続きだった、ここモザンビークにも生息している。いにしえの時代を思い出させる風景だった。
来たモザンビークを南下する風景は、所々に面白いものもあった。
乾季のためか川底の岩がむき出しになった所に朝日の当たる風景や、昔ながらの草葺屋根の円筒形の土壁の民家の背景に岩山がそびえていたり。
平地の畑が続く向こうに突如として大きな岩山がニョキーッと出ている場所は、他の国では絶対に観光地になっていそうな場所だった。
モザンビークは10年前にようやく政情が落ち着いて平安な経済発展の道を歩めるようになったと聞いており、まだまだこれからの国だ。出会う人々の教育、インフラ、観光整備とか、やることいっぱいありそーだなー。
さて、今日の荷物のフォーメーションは荷台吊り下げ型。経済の発展はまだまだだと思われるモザンビーク北部でも、道はケニアよりも遥かによく、舗装道路には穴も開いていない。
だから、荷台から吊るす程の衝撃はないのだが、膝の上に抱えているのもつらいので、吊り下げてみたのだった。休憩ごとの出入りがやや窮屈だが、道中は楽だった。
バスは何度か村や町で停車。
その度に、その場所の農産物を抱えて売り子が大量にバスを取り囲むのも面白い風景だった。皆、よく買うんだよねー。どうやら新鮮で格安のようだった。
私たちもミカン、カシューナッツを買ってみた。カシューナッツは、お手製という感じで、所々焦げたりしているけれど、味はよかった。
こうして午後3時過ぎにベイラに到着したのだった。
ベイラのバスが到着したのは、ターミナルでもなんでもない、大きな道路の中央分離帯が緑地になっている部分だった。めざす宿は、ここから徒歩圏内にあるはずだ。バスの係員と夫で荷物を降ろすと、背後から「Mtc100×2個分(US$7.73)を支払え」と言ってくる。地元の客もがんがんと荷物を載せていたのに支払っている風はない。外国人だから言ってきているのだろうと、ここは一つ無視を決め込んで急ぎ足でスーツケースを引きずってその場を小走りに立ち去ろうとした。
もし、正規料金ならば追いかけてでも請求するだろうが、案の定、誰もおいかけてはこなかった。後ろの方から「チノー」(中国人めー!)といまいましそうに叫ぶ声が聞こえてきた。
チノとはスペイン語やポルトガル語で中国人を意味し、かつてポルトガルの占領下にあったモザンビークの公用語はポルトガル語なのだ。中米のスペイン語圏ではアジア人を見ると日ごろの鬱憤晴らしをかねて、侮蔑的に「チノ」と吐き捨てるようにいう人に出会ったがそれを思い出し、二人で「おお、この侮蔑的な言われ方は久しぶりだねー」かなんか言いながら、とにかくこの場を逃げなくてはと足早に立ち去ったのだった。
実はめざす宿は、バスを降りて目の前にあったのだが、バススタッフのチンピラから逃れるために左手に歩き出してしまったので、宿のあるブロックを時計回りに一周する羽目になってしまった。でも、まぁ10分も歩いてもとのバスターミナルの目の前に戻ってホテルにチェックイン。
今まで経験した中で最悪の賞を差し上げたいホテル。うう、一泊だけの我慢だ。
こうして、怒涛の移動3日目が終了。
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