夫婦2人で世界一周の旅に出発!現地から海外長期滞在の旅の様子をお伝えします。
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チリ/ビーニャ・デル・マル
2005.12.12 ビーニャ・デル・マル
阿部 雅龍くん

 ビーニャ・デル・マルに日本人の旅行者が集まる汐見荘という宿がある。新鮮なシーフードを食べまくろうと汐見荘を訪れたら、阿部くんに出会った。

 彼はいわゆるチャリダー。今回の旅では、エクアドルのキトからウシュアイアまでを自転車で走る。ここはチリなので、既にペルー、ボリビアを通ってきたことになる。

 バイクで周っている人には会ったことがあるが、チャリダーには初めて会った。

 我々はペルーのリマからクスコへは飛行機で1時間だった。しかし、彼の場合はリマからナスカまで400km南下して、ナスカから4000mを越えるアンデスの峰にあるアバンカイを経由して、クスコへ降りていくというバスと同じ路線を通ったそうだ。バスで行ったという人も、アバンカイへの九十九折の上り道がきつかったという話だったが、そこを自転車で行くとなると、更に大変だったろう。「まぁ、アバンカイまでは100kmくらいずっと上りなんで、結構大変でしたね。上りだけで5日かかりましたねぇ」と軽く話す。5日間もずっと自転車で上り道を何時間も走るなんて、想像しただけでギブアップだ。

 更に我々はまがりなりにも屋根とベッドのある所に宿泊したボリビアのウユニ南部のラグーナ・コロラダ、ラグーナ・ベルデあたりは、季節がまだ冬だったこともあって、夜間の気温はマイナス20度。テントの中もマイナス10度だったそうだ。テントの外に顔を出して、息をハーッと吐くと、息の水分がすぐに凍って、ぱらぱらと胸の上に雪になって落ちてくるのだと言う。「いやぁ、まじ寒かったですよ、あはは」って、笑って言っているけど、マイナス10度の中でありったけの服を着込んで、一人きりで夜を過す勇気と体力はすさまじいと思う。

 今まで一番ひどい経験は?と誰かが聞くと、上記と同じラグーナ・ベルデ辺りを走っている時、自炊用のガスコンロが壊れてしまった時が悲惨だったと阿部くんは答えた。米はあるのに炊けないし、備蓄していたチョコレートも底をついてしまった。腹は減るけど自転車をこがないと、食料のある所までたどり着けない。キーッと切れそうになる状況だが、自分が始めてしまった旅だし、他に文句を言う相手もいない。続けるしかないのだ。

 まだ大学生という阿部くんだが、こうした経験をしているせいか、落ち着いて大人っぽく見える。空手もやっているという礼儀正しさ、甘いマスク、落ち着いた雰囲気。阿部くん、カッコいいなぁ。

阿部くんのサイト
夢を追う男 〜南米大陸自転車縦断行〜(http://blog.livedoor.jp/garyu1/)


チリ/サンティアゴ
2005.12.12 サンティアゴ
森 力くん

 森くんと初めて会ったのは、今年の7月11日だった。メキシコのカンクンからほど近いイスラ・ムヘーレスという島に2週間滞在し、カンクンのカーサ吉田に荷物を取りに行って、その足でカンクン南部のプラヤ・デル・カルメンに向かおうとしていた我々は、カーサ吉田で森くんに出会ったのだ。

 カンクンではまだ旅が始まったばかりだった森くんは、まだ日本にいる若者の雰囲気を残していた。次に会ったのが、グアテマラのアンティグアの日本人宿、ペンション田代だった。九州から来ている元気なカップルと一緒に、とんこつラーメンを作ろうと一生懸命だった。肉屋から買ってきた豚のげんこつ(大腿骨?)を熱心に洗って、鍋に入る大きさになるように砕くのが大変だったようだ。何時間もとんこつを煮込んで、何か味が違うと野菜を入れたり、醤油を入れたりして大騒ぎしているのが、見ていて面白かった。

 そして3回目が、ここチリのサンティアゴの日本人宿、ペンシオン内藤である。宿泊者同士でダイニングで寛いでいたら、「ただいまー」とイースター島から帰ってきた青年がいて、見たら森くんだったのだ。久しぶりに見た森くんは、だんだんと旅行者の風格が出てきていて、たくましくなっているようだった。

 今回の宿は規模が小さいこともあって、宿泊者がその日何をしているか、夜の会話の中から全部わかってしまう。森くんは、イースター島から帰ってきてからは、ゆっくりと本を読んだりして過しているようだった。今度、いつどこで会えるかわからないが、その飄々とした性格は変わらないでいてほしいと思う。


2005.12.12 サンティアゴ
壽恵村 明さん(本当は恵も難しい字なんだけど、変換で出てこないので、これで許してね)

 明さんとはクスコのペンシオン八幡からプーノ、プーノ発のウロス島、アマンタニ島、タキーレ島を巡る1泊2日のツアー、プーノからボリビアのコパカバーナまで一緒に行動した。あの時は、他にも数人の日本人がいて、この旅始まって以来初めての、日本人団体行動だった。

 そのパワフルなスケジュールにすっかり疲れてしまった中年の我々は、コパカバーナで6泊してゆっくりと休んでから、ボリビアのラ・パス、ウユニ、そして南下してアルゼンチン、アルゼンチンのメンドーサからチリのサンティアゴ、そしてちょっとだけビーニャ・デル・マルに行って、サンティアゴの宿に荷物を取りに来て、その日の夜にプエルト・モンに向けてバスで旅立とうとしていた。

 そこで宿帳を見ると、我々がビーニャに行っている間に、この宿にチェックインした人が1人だけいて、それが明さんだった。しばらくすると、森くんと一緒に明さんが戻ってきた。「いやー、1ヶ月ちょっとぶりですねぇ」と明るく話す明さんは、髭も一回剃ったのか短くなっているし、頭もすっきりとカットして、晴れ晴れとした表情である。

 聞くと、我々とコパカバーナで別れた後、ラ・パス、ウユニ塩湖3泊ツアー、パラグアイ、イグアスの滝を見て、数日後にブエノス・アイレスから日本に帰国。友人の結婚式に参加して、カメラのメンテ、コンピュータを買い直して、おいしいそばを食べ、1ヶ月日本で過した後、旅の続きをするために、数日前にブエノスに入って、20時間以上かけてサンティアゴまで一足飛びで来たというのだった。ひえー、我々がコパカバーナにいる間に、既にウユニに行っていたことになる。さすがに過密スケジュールで大変だったという明さんだが、1ヶ月、日本で英気を養ってきたせいか、今後もバリバリと飛ばしていくつもりだそうだ。

 明さんはフリーランスのカメラマン。プロというにはまだまだですと謙遜するが、今までの旅で撮りためた写真を小冊子にして販売したところ、「お陰さまで黒字になっています」という売れ行き。売れるものを作っているという点では、立派なプロだといえる。日本での1ヶ月も、休んでばかりいたわけではなく、写真をまとめて映像にして音楽やキャプションを付けたビデオも作製してきていたり、こうしたカッコいい写真などを個展を開いて披露する段取りも組んできて、忙しかったようだ。

 我々と森くんでビデオを見せてもらったが、自分たちが通ってきた場所がたくさんあって、「ああ、これ行った、行った」と言いながら3人で楽しく見せてもらった。もっとも明さんの感想としては、「皆、行ったことがあるから、これ見せても誰も感動しないんすよねぇ」とちょっとがっかり気味。いやいや、現地の人の生き生きとした表情の写真なんかは、我々には撮れないので、さすがプロだなぁと感心してました。

 自分探しの旅、やりたいことを見つける旅、というテーマを掲げている旅人も多い中、明さんは焦点が定まっているので、エネルギーが拡散していない。話していると、ビーッとまっすぐに勢いよく目的に向かって進むエネルギーのアロー(矢)が見えてくるような気がするのである。この後、我々はまっすぐに南下してプエルト・モンで1週間ほど過してから、バリローチェに行く予定だが、明さんはイースター島に行って、戻ってから我々と同じくパタゴニアに入ってくる。予定では、早くもバリローチェで、明さんが先に行ってしまうようである。

明さんのサイト
世界放浪中(http://akira.or.tv/)


チリ/プエルト・モン
2005.12.17 プエルト・モン
いとう ひろみ さん

 プエルト・モンで宿探しをして、ここだという宿が決まったとき、宿の女主人が何かをスペイン語で言っていた。私たちの理解では、「プエルト・モンには、ペンショニストのひろみという日本人女性がいて、私の友達なのよ」という風に聞こえた。ペンショニストとは何?と聞くと、「部屋があって、朝・昼・夜の3食が付くことよ」といわれたので、プエルト・モンで食事つきのペンションを営んでいる女性がいるのだとばかり思っていた。

 宿泊2日目、女主人が「ちょっとこっちに来て」とダイニングに招くので行ってみると、そのひろみさんが夕食を食べている所だった。で、「海外青年協力隊員として、この家に下宿しているひろみと申します」と自己紹介されて、やっとペンショニストというのが賄い付きの下宿人を意味することがわかった。

 ひろみさんはケミカル・エンジニア。日本では大学で研究を行っていた学者さんの卵だった。それが縁あって海外青年協力隊に応募して、今年の4月からプエルト・モンで研究を行っている。ここは鮭がたくさん獲れるのだが、鮭の体内に残る残留農薬の調査を行うのが、ひろみさんのテーマだそうだ。

 海外青年協力隊というと、「お小遣いをもらいながら外国に滞在できておいしい立場」という感覚で来ている人の話が多かった中、こうした技術職で来ている人に会ったのは初めてで、また、実際に協力隊員として働いている人に会ったのも初めてだったので、いろいろとお話を聞いた。

 技術職で来ている人はテーマが決まっているものの、そうでない人は「インディヘナの女性の生活向上」なんていう漠然としたテーマを与えられ、どうしていいのかわからなくて悩んでいる人も多いそうだ。ひろみさんの場合、テーマは決まっているものの、分析するための機械が壊れてしまっていて、テーマに沿った分析ができない状況にあり、仕方がないのでチリ人同僚の別の分析を手伝っている日々。日本の大学の研究室なら当たり前にある分析器は1台数百万円もするので、ひろみさんのいるラボではとても高価で予算が出ず、新しい機械が来る見込みも薄いようだ。これからどうやってテーマに沿った分析をするべきなのか、ひろみさんも実は頭を悩ませている。

 テーマの設定に悩んだり、施設がそろっていなくて仕事ができないような状況で、JAICA(海外青年協力隊を取り仕切っている外務省の外郭団体)は成果を出していけるの?と聞くと、海外青年協力隊のボランティアは、ボランティアそのものの成果はあまり問題にされていないという話だった。日本の若者を世界中に散らばして、ボランティア活動を行うことによって、各国での日本に対する印象を良くして、日本と諸外国の間で摩擦や問題があったときに、その国の一般大衆の世論が日本に味方してくれるための草の根的な素地作りが、本当の目的なのだそうだ。

 職場ではチリ人の同僚と組んで分析の仕事をしているということで、もちろん我々よりもチリ人とは深くつきあっている。チリ人ってどんな人たちなんだろう?と聞くと、内向的な人が多いが、一度知り合うと実は愛情豊かな人たちだと語っていた。また、印象としてはお金はぱっぱっぱーと使っちゃう人が多いような気がすると言っていた。私も、何回かチリ人とツアーに参加して、この印象に同意するところがある。ツアーが始まった朝のうちは、あまりお互いに話もしない感じだが、お昼をすぎるころには、仲良くなり、記念撮影大会となるのが常なのだ。また、デジタルカメラやビデオなど、なかなか高価な電気製品も持っている人も多かった。案外、日本人に似ているかもしれないね。

 ひろみさんの任期は2年間なので、ここでの生活はまだまだ続く。「他の隊員とメールで連絡を取り合っていますが、私は本当に恵まれていると思います」と語っているが、異国の地で1人で働くのは大変なことだろう。苦労も多いが、実りも多い、そんな2年間になるといいね。


2005.12.18 プエルト・モン
ジョアンナとロバート夫妻

 プエルト・モンでは3つのツアーに参加したのだが、全部のツアーで一緒だったのが、このチリ人夫妻だった。

 最初のツアーがスペイン語圏の人ばかりで、ガイドの内容もよくわからないなぁと思っていたら、奥さんのジョアンナが英語で話しかけてきてくれたのだった。
 聞けば、オーストラリアに移住して今年で20年になるという。クリスマスの休暇を使って、チリに里帰りする途中でちょっと観光しに来たそうだ。

 ロバート(私にはロバートだと自己紹介したが、奥さんはロベルトと呼んでいた。)は、溶接の仕事をしていて、最初は会社に雇われていたが、今は自分で仕事を請け負っているという。「こういう旅行をするためには、自営が好都合さ。好きなだけ仕事を入れられるからね」というロバートは、今回の里帰りのために、この1年間朝から晩まで、時には週末もなく、働き詰めだったそうだ。

 オーストラリアから持ってきた荷物には、チリの親戚へ配るクリスマスプレゼントがいっぱいつまっていて、ロバートとジョアンナそれぞれ60kg運んできたそうだ。「何をお土産に買ってきたの?」と聞くと、「前回好評だったチョコレートを3kgでしょ。それから、おいしい紅茶を20箱持ってきたよ。」と桁外れの量を買ってきている。なるほど、一人60kgになるわけだ。

 夫妻の旅は喜びに満ちている。頑張った自分への御褒美といわんばかりに、ツアーでは立ち寄る先ごとに買い物をしていた。3回目の今日は特に激しく、ジョアンナは毛糸の帽子、アルパカのセーター、毛糸のカーデガンと、バスに乗り込む度に着膨れしていき、手持ちの買い物袋も増えていった。そんなジョアンナを温かく見守るロバートは、いつも、オーストラリアにいる娘たちへのお土産や、親戚へのお土産の買い足しをしていて、私が見た限りでは自分の物は買っていなかったように思う。人にあげて喜ぶ顔を見るほうが好きなようだ。そういえば、私にも2回目のツアーで紅茶のティーバッグ、3回目のツアーではカンガルーのマークのついたキーホルダーを持ってきてくれた。こうした気の使い方は、御土産にとどまらず、いつも感じられた。この夫妻のお陰で、プエルト・モンのツアーは、常に楽しく過す事ができたといえるだろう。

 ロバートが帰り際に言った。「次は2年か3年後に、娘たちも連れて南の島に行こうと思っているんだ。それまでしっかり働いて、またお金を貯めなきゃね。」目標があって、それを一緒に楽しめる家族がしっかりとある。これ以上の喜びがあろうか?と、ロバートが言っている気がした。

 今頃は二人で120kgの荷物を解いて、親戚にお土産を配りまわっているころだろう。しかし、今回の旅行で買ったお土産で、帰りの荷物はまた重くなっているに違いない。


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