ブラジル/サン・パウロ |
2006.02.23 サン・パウロ
加部 元紀さん
サン・パウロで宿を探していてホテル池田を訪ねると、フロントにこの男性がいて、1泊の値段やホテルの施設のことをスラスラと説明してくれたので、てっきり宿の人かと思っていたら、宿泊客の1人だった。それが加部さんとの最初の出会いである。
ホテル池田に移動してきて、顔を合わせる度ににこやかに挨拶するうち、色々とお話を聞くことができた。
加部さんは戦後移民としてブラジルに入植した1人。終戦後、高校生だった加部さんは、商船大学に進学しようとしていた。そんな折、高等学校の担任の先生から「商船大学に行きたいということは、外国に行きたいということなのか?」と聞かれ、先生の弟さんがブラジルに移民しているので紹介してあげようと言われたそうだ。そこから先生の弟さんと文通が始まり、ブラジルに移民した日本人の生の声を手紙を通じて知り、ブラジルに大きな可能性があると感じたそうだ。時は戦後で、今までの価値観をがらっと変えなければいけないという教育や思想が日本社会にあふれて、それと共にアイデンティティーまでを失いそうな危機感も感じていた加部さんは、ブラジルに行くことを決意した。
といっても、大学受験の準備も進んでおり、両親もてっきり大学に行くと思っている。そこで母親に「ブラジルに行って自分の力を試してみたいんだ。ただし受験から逃げると思われるのも嫌だから、受験に合格したらブラジルに行くよ」と告げた。母親の反応は意外にも「ブラジルでもどこでも行ってきなさい」という寛容な答えだった。というのも、まさか本当に息子がブラジルに行くとは思っていなかったからだそうなのだが、加部さんは了解を得たものとして、どんどん準備を進めていった。
ブラジルに渡るからにはコーヒー農園を持ちたいと思っていた。しかし、実家が庄屋なので農業に縁がないわけではなかったが、実際に農業に携わったことがなかったため、始めからコーヒーは難しいだろうと判断し、農業の全ての要素を含んでいる園芸に就職口を求めた。就職口は決まった。次は、身元保証人だ。当時、ブラジルに移民するためには、ブラジルでの身元保証人が必要だったそうだ。これも浄土真宗のサン・パウロ寺の総督がなってくれることになり、後は受験の結果を待つばかりとなった。結果はみごと合格。全ての準備を整えて、「それでは私はブラジルで頑張ってきます」と言った時の、お母さんの驚きようは大変だったそうだ。それから親戚中の引きとめの説得を受けたが、決意は揺るがず、ブラジルへとやってきたそうだ。
ブラジルの農園では、2年目にはその働きぶりを認められて、7人の先輩を抜いて責任者に抜擢されたそうだ。その後、園芸農園が経営する花店の店長となり、今後は商売に携わるようになった。その後農園主の急死により、花店を自分で買い取ることになった。買い取ったのはいいが、運転資金がない。銀行に融資を頼みに行くと、しかるべき人の保証があれば貸しましょうと言われた。そこで、しかるべき人とは例えばどんな人なのでしょうかと聞いたところ、その当時、商売で成功している日本人移民の名前をあげたので、早速その人を訪ねていった。銀行が名前をあげた人に直接保証人になってもらえれば、話が早いと考えたのだった。
当時加部さんは、月曜日から日曜日の午前中まで仕事をしていたので、、日曜日の午後にその人の自宅を訪ね、今までの経緯を話し、是非保証人になってほしいと依頼した。話を聞いた翌日、その人は朝一番で店にやってきてしばらく加部さんの仕事ぶりを眺めていた。加部さんは話したとおり、店を朝7時には完璧な状態で開けていた。ブラジルでは事あるごとに花を贈る習慣がある。朝早く店を開けておけば、通勤途中のお客さんも立ち寄ってくれるだろうと考えてのことだった。その日は偶然にも朝から注文していくお客さんが何人も出た。それを見て大丈夫だと思ったのか、その人は保証人になってくれて、銀行から融資を受けることができたということだった。銀行が名前を挙げた人に直談判する加部さんも勇気があるし、それを受けて自分の目で見て判断して保証人になった人もたいしたものだと思う。
花店を経営していたある日、知り合いのブラジル人でケータリングサービスをしている人から、大きな農場で結婚式の料理の発注があったのだが、ついでに会場の飾りつけをしてもらえないかという話がきて助けてほしいと相談を受けた。結婚式会場の飾りつけなんて、やったこともないのだが、そこが加部さんのこと「ああ、いいよ。」と引き受けてしまった。話は進んで、それでは会場を見に行きましょうとその農場に行ってみると、予想以上の大農園で体育館のような結婚式会場だった。これを花で埋め尽くさなければならない。デザインはどうしようか、職人の手配は、結婚式中に花の鮮度を保てるのか、瞬時に様々な問題が頭を駆け巡り、「これは無理だなあ」と思わざるを得なかった。そこで見積もり金額を出すときに、断ってほしいという意味もこめて、実際の見積額の5倍の値段で出した。さぁ、これで一件落着と思っていた数日後、「ではその見積額でお願いします」という答えが農場から返ってきたからもう大変。様々な問題をクリアして、とうとう当日を迎えることになった。華やかに飾りつけが済んだ会場に農場主を呼んで見てもらったところ、農場主はじっと飾り付けを見つめ何も言わない。タラーッと冷や汗が背中を伝ったころ、「いいですねぇ」と言われたときは本当にホッとしたということだった。
この件では、ケータリングのおやじさんにキックバックを払うことになっていた。それが断ろうと多めの見積額を出していたものだから、ケータリング屋にも多額の報酬が入った。これに味をしめたケータリング屋のおやじさんは、以来、頼んでもいないのに営業活動を行い、あれよあれよという間に披露宴の飾りつけの仕事が舞い込むようになったということだった。こうして多忙ながらも、新規事業の開拓という面白さにのめりこみ、気がつくとコーヒー農場が買えるだけの財産を築いていた。そこで、ついに土地を買ってコーヒー農園主となった。
その後、コーヒー農園はたたんで、今度はイタリアにブラジルのコーヒー豆を輸出する事業もやっていたそうだ。
次々と新しいことを試してみたくなっちゃうという加部さんが、今組もうとしている新しいプロジェクトは、アマゾンの森林保全とブラジル北東地方の海洋保全プロジェクトだ。「これは私の代で始まって、子供たち、そのまた子供たちへと引き継いでいってもらいたいと思っているんですよ」と加部さん。何やら壮大なプロジェクトである。
移民の経験談から始まって、様々なエピソード、そして現在に生きるプロジェクトと、加部さんの話は非常に興味深かった。また機会があったらその後のお話をお伝えしたい。
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ブラジル/リオ・デ・ジャネイロ |
2006.03.01 リオ・デ・ジャネイロ
柴田 護也くんと 安部 理穂子さん
イパネマビーチのフラットを出て、インターネットカフェに行こうとしていたら、道路の向かい側から「おーい、岡田さんじゃないですかぁ」と声をかけてきてくれた人がいる。
お、この旅が始まって実に5回目の出会いとなる柴田君とその彼女の安部さんだった。
柴田君と安部さんはカナダの語学学校で知り合ったそうだ。コース終了後、柴田君はそのままアメリカ大陸南下の旅に出て、カナダで仕事があった安部さんは9ヶ月後にペルーのリマで合流、それから2人で、チリのサンティアゴ、パタゴニア、イースター島、チリのアタカマからウユニに入り、ウユニから南下してビジャソン経由でアルゼンチンのブエノス・アイレスに入り、アスンシオン、イグアス、サンパウロを経て、ここイパネマまで来たということだった。
最初に柴田君と出会ったのはグアテマラのパナハッチェルのツーリストホーム村岡という日本人宿だった。生真面目に現代っ子である柴田君と高度経済成長期をたたき上げのサラリーマンとして過してきた宿のご主人の村岡さんとの会話は、なかなか面白かった。村岡さんが「当時ね、若い社員の間に長髪が流行り始めて、俺たちはそれがねぇ、我慢なんなかったわけ。それでね、会社の飲み会の時に、長髪なんかしてんじゃないって、みんなでそいつの髪をバリカンで刈っちゃったことがあったなぁ」というエピソードを語ると、柴田君は目を丸くして「じ、人権侵害じゃないですか」とつぶやいていた。一致団結して会社の業績をあげていかなきゃならない時代の人と、経済成長後、社員一人ひとりの個性が尊重される時代の人。どちらの世代とも一緒に仕事をしたことがあるだけに、双方の言い分はよくわかる。久しぶりに会社的雰囲気を味わうことができて、大層面白かった。
2回目には同じくグアテマラのアンティグアで再会。パナハッチェル、アンティグアと続けて会う人は多かったので、それ程珍しいことではなかったが、それからコスタリカのサン・ホセの国立劇場前の公園のベンチに座っている柴田君を見た時はビックリした。へー、こんな偶然もあるんだねぇと、一緒にいた医学生と4人で昼食を食べにいったりした。以前にも言っていたが、そろそろ彼女と合流するという話をまた聞いて、クールにしていても彼女には会いたいんだろうねぇとちょっと可愛いぞ!と感じていた。
4回目の出会いはチリのサンティアゴの日本人宿ペンション内藤だった。この時、初めて安部さんと会った。柴田君のいとしの彼女は、あまりに強行軍のパタゴニアの行程にぐったりすると共に、「もぅ、聞いてくださいよぉ」と20時間だの30時間に及ぶバス旅行をさせられていると語った。その横で「いや、それくらいの強行軍じゃないと全部回れないし、最初から甘やかしちゃいけないと思って」などと柴田君が反撃してくる。いやぁ、何だか初々しくていいねぇと皆でひやかしながら2人の話を聞かせてもらった。
そして今回が5回目出会いになる。サン・パウロにいる間、柴田君は1人でギアナ高地のテーブルマウンテンへのツアーに参加してきて、その間彼女はサン・パウロで待っていたということを聞いた。サンティアゴで出会った頃に比べると、なかなかリズムが取れてきているようだった。そろそろ2人の旅行も終わり、日本への帰国の時期が近づいている。「日本でお付き合いするのは始めてになるので、どうなることやら」という安部さんだが、大丈夫。あんなに過酷な南米旅行を2人でこなしたのだから問題なしです。
因みに、今までの柴田君の写真は全てカメラ目線をはずしている。撮るのは好きだけど撮られるのは苦手なのだそうだ。だから、今までたくさん会っていたけど掲載してなかった。今回、彼女から了解をいただいてやっと掲載に至ったというわけ。目線ははずしっぱなしなんだけどね。
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ブラジル/ナタル |
2006.03.25 ポンタ・ネグラ海岸
Virginia Aki さんとその彼
ポンタ・ネグラのホステルで日本人っぽい人をみかけたので、声をかけたら、日系ブラジル人だった。
ヴァージニアと名乗ったその女性はサンパウロ在住の日系3世。2世、3世ともなると日本語が話せない人が多い中、ヴァージニアさんは日本語がペラペラだった。不思議に思って聞いてみると、小さい頃からおばあさんと一緒に暮らしていて、日本語の環境で育ったから話せるのだそうだ。
今は休暇で、彼と彼の友人の3人でブラジルの北東地方の海岸を周っているということで、毎日ツアーに参加してエネルギッシュに楽しんでいた。
こんな所で日本語を話す人と出会えると思っていなかったので、彼女との出会いはとても嬉しかった。日系人は日本語を話せて顔立ちも日本人だが、ブラジルで生まれ育っているので中身はブラジル人だというような話を聞いたことがあるが、ヴァージニアさんはおばあさんと長く過ごしていたせいか、あるいは現在日系企業で仕事をしているせいか、気の使い方が非常に日本的だ。それでも、一般的な同じ年の日本人よりも自分の意見をしっかり発言する様子は、ブラジル的。ということで、日本とブラジルのいいとこ取りしている女性だった。
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2006.03.25 ポンタ・ネグラ海岸
Naomi & Ashley夫妻
ナタル名物の砂丘ツアーで1日同じバギーに乗り合わせたイギリス人のカップルは、結婚9ヶ月の新婚夫婦だった。
ナオミは公的機関で心理カウンセラーとして働き、アシュレーは登録商標関連専門の法律事務所で働いているそうだ。
今回は本当はヨーロッパの別の島に行こうと思っていたのだが、たまたまインターネットで格安ナタルツアーを発見してここまでやってきたのだという。ロンドンとナタルの往復航空券とナタルでの1週間の宿泊がついてUS$600だと言っていた。ここに来る前、私たちはサンパウロで、サンパウロから一番安くヨーロッパに行けるチケットを探して、結局マドリッド行きを一人US$1000で購入してきたばかりだったので、2人の話にはかなり衝撃を受けた。
そう言えば、同じツアーで別のバギーに乗っていたロンドン在住のブラジル人、フェリックスも、今回インターネットでロンドンとナタル間の格安往復チケットをゲットしてやってきたと言っていた。彼の場合はもっと凄くて、インターネットでブラジル行きの格安チケットを探していたら、あるエージェントのサイトで突然小窓が開いて「今ならロンドン−ナタル間往復R$275」というではないか。R$275と言えば、米ドルに直すと約US$130。「そりゃもう、わが目を疑うくらいびっくりしたけど、ボーっとしてこのチャンスを逃しちゃいけないって、気が狂ったようにクレジットカードの番号を打ち込んでさっさと買ってきたってわけ。」と彼は出会う人ごとに嬉しそうにこのエピソードを語っていた。その話が聞こえてくる度に、こちらの胸はチクチクと痛むのだが、しょーがない。
ナオミ達とフェリックスは全く同じ航空会社の全く同じ日時の便でロンドンに帰る。みんなで話を総合して出した結論は、この便はチャーター便なのだろうということだった。通常のスケジュールには入っていない特別仕様のチャーター便。ナオミ達が使った旅行会社が大型ツアーを企画して格安で販売し、余った座席をラストミニッツ的にインターネット上で即売したのをフェリックスが買ったのだろう。ということで、みんな納得した。ま、だから本当にレアケースなわけだ。更にこうしたツアーは必ずヨーロッパ発になるだろうから、今回の我々のようにブラジル発の人間はこうしたチャンスに恵まれることもないだろう。そう思って今回は諦めがついた。
とまぁ、こうしてナタルに来た2人なのであった。アシュレーは、くるくるとよく動き回る元気な子供みたいな性格。ツアーでは大きな砂山を板切れに乗って滑り降りるアトラクションが2ヶ所あった。1ヵ所目ですでに体験してしまったアシュレーは、2ヵ所目でもう1度参加するかどうかちょっと悩んでいたが、「大人になってよかったと思うことの1つはね、やりたいことを親に止められずに何でもできるようになったってことなんだ。そうだ、やりたいことはやろう!」と再度砂山に向かって走り去って行った。一方のナオミは慎重な性格で、こうしたアトラクションにはあまり参加せず、はしゃぐアシュレーを常に「アーッシュ!」とたしなめる役回りだ。しかし話を聞いてみると、サンバやサルサバーに行くのが大好きだそうで、そうしたことには興味がないアシュレーを置いて、時々クラブに行って踊ってくるのが趣味なのだそうだ。
似ていないようで、似ているようで、仲の良さがほのぼのと伝わってくるフレッシュなカップルだった。
ナオミによると、今ロンドンのクラブではナタル辺りの民族音楽であるフォーホーForroが流行っているということで、音楽CDを買っていたので、我々も一緒に買ってみた。この時買ったCDは、砂まみれのかばんの中で聞く前に壊れてしまっていたので買いなおしたが、Forroを聞くとこのカップルを思い出す。
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