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2007.02.11
マリンディの町をぶらぶら
ケニア:マリンディ |
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ナイロビからの夜行バスは朝5時半にマリンディに到着。オールド・ラム・ホテルという安宿を訪ねると、チェックインは午前8時からにしてくれと言われた。それじゃぁ、向かいのタナ・ホテルはと見に行くと、こちらのチェックインは朝10時以降だという。
もっと元気があれば他のホテルを見に行ってもいいのだが、眠い。とにかく眠い。オールド・ラム・ホテルの方がまだ早く入れるので、1階の食堂でお茶をしながら待つことにした。
朝7時、2階のフロントからおやじさんが降りてきて、1時間早いが入れてあげようとチェックインさせてくれることになった。薄暗い階段をあがってフロントでチェックインの手続き。うわー、大丈夫かなぁこのホテル。と思っていたが、部屋は窓が大きく取ってあって明るくて風もよく通る。本当にベッドしかない簡素な部屋だが、数日の宿泊なら耐えられそうな感じ。一泊一部屋KSH250(=US$3.40、2007年2月12日の換算レートUS$1=KSH73.55を使用)という値段にしては小奇麗だとも言える。
チェックインすると二人とも倒れこむようにベッドに横たわり、昼前の11時まで爆睡するとかなりスッキリした。シャワーを浴びて、洗濯をして、さぁマリンディの町を散策しよう。
今回のケニア東海岸沿いの町を巡る小旅行は、
マリンディMalindi→
北上して
ラムLamu→
南下して
ワタムwatamu→
南下して
モンバサMombasa
と4つの町を20日間くらいで周って帰って来ようという計画だ。各町の特徴はガイドブックを読んでも今ひとつつかめないので、実際に訪れてからどのくらい滞在するかを決めるしかない。
今回のマリンディは下見の意味で滞在。良さそうならラムから戻ってきてもう少し長く宿泊しようという計画だ。長く滞在する基準はもちろんビーチ。いいビーチだったら、毎日通って楽しむことができるからね。
ということでマリンディのビーチに向かった。
長い桟橋が見えて、その向こうに見える海を見た途端に、私たちは愕然としてしまった。茶色い・・・。ひたすら茶色いのだ。しかも、浜は茶色い砂に蹉跌のような黒い筋が入っているビーチ。あーあ、こりゃぁ駄目だ。ガイドブックにある「遠浅の青い海原」とはいったいどこのことなのだろうか。
後に聞いた話では、マリンディの町の近くに川があり、そこから泥土が流れ込むために海が茶色く濁ってしまうのだということだった。私たちがケニアに入って来た2月の初旬から度々雨が降っているので、その影響でこうなっているのだろうと思われた。
この海を見るなり、明日はラムに移動しよう、次回マリンディに戻ってくることがあっても乗り継ぎの場所というだけで長居はできないと判断した。
さーて、海がだめなら他の観光場所は?とガイドブックを見ると、バスコ・ダ・ガマが到着した記念の十字塔があるという。桟橋から十字塔に向かう途中には、ポルトガル教会跡があった。フランシスコ・ザビエルが1542年にインドへ赴く途中で死亡した二人の水兵を埋葬した所だそうだ。1593年にポルトガルがマリンディを去った後、1893年にイギリスがこの教会付属の墓を利用し、1958年まで使われていたという歴史がある。って、解説の看板そのまま要約。
教会跡はフェンスに囲まれて入れない状態だったが、フェンス越しには墓らしきものがあり、まぁ解説の通りに墓だったんだろうなぁということがわかる。
この墓そのものというよりは、かつて自分が学校の教室で学んだ人物の軌跡を日本からこんな離れたアフリカで目の前にしているという事実の認識に感動する。
日本の歴史の教科書にも登場するサンフランシスコ・ザビエルがポルトガル王の依頼で、インドでの布教活動のためにポルトガルのリスボンを出発したのは1541年。喜望峰を回って1542年にマリンディにも立ち寄り、インド、マレー半島で布教活動を行った。その時にマレーシアのマラッカにいたアンジロー(弥次郎)と知り合って、洗礼を受けた彼の導きにより薩摩に上陸したのが1549年(「マイペディア」より)。
「以後よく(1549)広まる」と年代語呂合わせて覚えていたに過ぎない歴史的事実に息が通う気がした。
ポルトガル教会跡を右手に海沿いの道を進むと、左に曲がる道があり、その先にバスコ・ダ・ガマの十字塔がある。入り口には小さな警備員質があり、係員がにこやかに迎えてくれた。話の内容はにこやかではない。バスコ・ダ・ガマの十字塔を見るには、KSH500(=US$6.80)のマリンディ見所周遊券を買わなければならない。これには、マリンディの博物館や先ほど通りがかったポルトガル教会跡など数箇所の見学入場が含まれている。
しかし、私たちはバスコ・ダ・ガマの十字塔さえ見られれば良かった。そのためにKSH500を支払う気にはなれない。話をして「それでは残念ですが帰ります」というと、係員は「それなら特別にバスコ・ダ・ガマだけを見るということで、お一人KSH250、二人でKSH500でどうでしょうか」と言ってきた。「半額払って1ヵ所しか見られないのはちょっとねぇ。二人でKSH200が妥当じゃないでしょうか」というと、「いやいやそれは安すぎます。二人でKSH400なら」という。もう一声。「じゃぁ、間をとって二人でKSH300では?」というと手打ちになった。ケニアといっても、この地域はイスラム教徒も多い。この係員の男性も商談好きのイスラム教徒なのだろうか。細かい交渉を楽しんでいるかのようだった。
そうと決まると、別の若い青年が案内についてくれた。大学で観光科を先行しているという彼は、勉強も兼ねてケニア国内の様々な観光地でアルバイトをしているのだそうだ。ものすっーーーーごくやる気に満ちている。十字塔に向かうほんの100m程の間に、立て板に水のごとく年月日や歴史上の人物をちりばめた歴史物語を語ってくれた。内容よりも、この記憶力、このやる気に興味が沸いた。
この塔はオリジナルのものにコンクリートを被せて修復してあり、場所も元の位置からは動かされているのだそうだ。バスコ・ダ・ガマは喜望峰を回って南アフリカの海岸沿いにも十字塔を立て、次にモザンビーク、そしてケニアのモンバサに十字塔を建てようとした。ところがモンバサでは排斥運動にあってマリンディになったという歴史があるらしい。
ねぇねぇ、そんな事よりも学校を卒業したらどうするの?と聞くと、航空会社か旅行代理店に行きたいという。ケニアには野生動物の多くいるサファリ、美しい海のビーチなど観光の魅力がたくさんあるので、そういう事に関わっていきたいのだそうだ。
「頑張ってねー!」と青年に別れを告げると、マリンディの観光は終了。涼しげな木が陰を落としている大通りには、地元の女子高生の制服姿が眩しかった。
それにしても暑い。高原のナイロビから海岸沿いの町にやってくると、赤道直下ということを如実に感じる。日の当たる所に出ると、強烈な太陽の日差しに体を射抜かれるような気がして、日陰を探し、探し歩いた。
町中の交通は乗用車のタクシーもあるが、タイのトゥクトゥクのような三輪車もある。利用しなかったので料金はわからないが、タクシーよりは安いんだろう。
バス会社が並んでいる下町のメイン通り、ケニヤッタ通りKenyatta.Rdの入り口にはマーケットがある。
行ってみると屋外のマーケットで、家庭で使っているのだろうか調理用火鉢が売られていたり、果物が売られていたりしていた。
この火鉢というか灯油コンロは、カイロで出会ったご夫婦の愛用品でもある。どうしても自炊したい、しかし自炊できる設備がアフリカには少ない。ということで、このコンロを購入してタンザニアのザンジバル島で獲れたての魚を買ってきて焼いて食べたりしたのだそうだ。
燃料はペットボトルを持ってガソリンスタンドに行くと灯油を売ってくれるのだそうだ。500mlで結構もつらしい。ご夫婦はよっぽどコンロが気に入ったとみえて、ナイロビから日本にコンロを郵送したと聞いている。
この夫婦に感化されてナイロビでコンロを購入して、持ち歩いているのが、ナイロビから一緒にやってきたフミさん。小柄なフミさんは後ろから見るとバックパックが歩いているのかっちゅうくらい、頭まですっぽりとカバンで隠れているにもかかわらず、更に両手に大荷物。一体、何を持っているんですかと聞くと、コンロと調理器具と食器一式を持ち歩くことにしたのだという。そりゃぁ大変だ。マリンディの後はワタムという所に行くのだが、そのうちもう1人友達がやってくるので、荷物を分けて持つことができるし、二人いれば自炊も楽しいし割に合うというわけだ。
キッチンを持ち歩くバックパッカー。これも旅がいよいよアフリカに突入してきたんだなぁという感慨につながる。
さて、マーケットの果物はどれも産地直送、いまトラックから降ろしましたという風体で、買って帰るだけでなく、その場で切って食べさせてもくれる。みんな小さなパイナップルの切れ端をこちらに差出してどうだ、どうだと勧めてきた。その包丁、大丈夫ですか?という不安が先に立ち、ちょっと食べる気にはなれなかったが。
宿の前の通り。バス会社の多くあるケニヤッタ通りも似たような感じだ。 |
明日はラムに移動する。そのバスチケットを午前中に物色していて、Tawakalというバス会社にしようと思っていた。
ラムまでのバス料金はTawakalだとKSH500、他の会社だとKSH400。Tawakalで違いを聞いてみると、Tawakalならば横1列4席だが、他のバス会社だと横1列5席。これが違いだという。5列だと、2席あって通路をはさんで3席になる。これはきついだろうとTawakalを買おうと思っていたのだった。
ところが・・・。午後になってTawakalに行くと、明日の朝のラム行きはもう売り切れだという。しまった!
バスのためにここでもう一泊するのも馬鹿らしいので、Falcon Coachというバス会社のチケットを購入した。横5列のバスだ。どうなることやら。
バスのチケットを購入したのが午後2時半。さっきコーラを飲んだばかりなのにもう喉が渇いた。ふと見ると、道端にテーブルを置いてジュースと何かを揚げたお菓子を売っているお店がある。ジュースは保温された筒状の入れ物に入っていて、そこからお玉でくみ出している。聞いたらパッションフルーツのジュースだって。大きな氷の塊が入っている入れ物はいかにも涼しげだった。
さっきは包丁の雑菌が気になってフルーツを食べなかったのに、もう挫折して氷に浸かった道端のジュースを飲んでいる。ああ、こうやって病気になる時はなるんだなぁと半ば諦めの気持ちで飲み干したが、別にどうにもならなかった。良かった。
私たちがいるのはマリンディの下町。バス会社やマーケット、そしてバスコ・ダ・ガマの十字塔がある地域だ。もっと北側に行くと高級リゾート風な町並みになっているらしいのだが、明日は移動するし行かなかった。だから、この時のマリンディの印象はとてもひなびた田舎町ということになる。
後に高級リゾート風な町並みと言われている部分も行ってみたが、たいして違いはない。まぁ、白人向けの洒落たカフェや華やかな土産物屋がいくつかあり、初回の印象よりもマリンディは町だったんだと思ったくらいだ。
明日のバスチケットも手配したし、観光スポットはざっと見て周ったし、海は茶色い。マリンディにはもう用はない。明日はラムに移動だ。
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