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2007.02.25
モンバサ観光して昼食をご馳走になる
ケニア:モンバサ |
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モンバサはビーチリゾートとして観光客が数多く訪れる街である。
しかし、外国から来た観光客の多くはディアニDianiというビーチに直行してそこで滞在するようで、モンバサの市内でふらふらと歩いている旅行者はあまり見かけなかった。
モンバサ市内の見所といえば、タスクスと呼ばれる象牙を模した巨大なアーチ。これは宿から歩いてすぐの所にあり、この近くに観光案内所があるので、昨日到着した時に既に訪れていた。因みに24日は土曜日で観光案内所は閉まっていた。今日も日曜日なので閉まっている。仕方ないのでガイドブックを片手に市内観光を行うことにした。
次なる見所はフォート・ジーザスという砦で、1593年にポルトガル人によって建てられ、後はイギリスによって刑務所として使われ、現在は博物館として昔の貿易で得た中国陶器などが展示されているという説明がガイドブックにあった。タスクスの前あたりからトゥクトゥクを拾い、KSH50(=US$0.72)でフォート・ジーザスまで行ってくれるように交渉。3台目くらいでこの値段で行ってくれる運転手がつかまったので、乗り込んだ。
フォート・ジーザスは見るからに砦だった。海に面した所には砲台も並んで、昔の面影を残している。
博物館は建物の真ん中あたりからスロープを上った所に入り口があるようだが、昔の中国陶器を見る気にはなれなかったので、入場はしなかった。そのかわり、庭には無料で入れるので、建物のまわりをぐるっと散策することにした。
遺跡という感じで、いい味を出していると言えなくもない。超特大の錨が建物の壁にたてかけて展示されていて、この大きさから船がいかに巨大であったのかがしのばれた。
天気があまり芳しくなく、ここから見える海の色は鉛色。建物をぐるっと一回りしたら15分で観光終了。
フォート・ジーザスの目の前から左手に続くエリアは、イスラム教徒が多く住むオールド・タウンという地域になる。ここには土産物屋などが並んでいるはずなので、行ってみる。
象がモチーフの木彫りの椅子を置いている店は開いていたが、他の店は開いていない。日曜日だから?イスラム教徒は金曜日が休みで日曜日は店を開けるんじゃないの?
通りはお休みの雰囲気でパッとしない。途中まで行って引き返してきた。
さて、ガイドブックにある見所はあと2つだ。ワニの養殖をしているマンバ・ビレッジと貝殻がちらばるシェリー・ビーチだ。「地球の歩き方」のマンバ・ビレッジの解説はとても面白い。
「・・・ワニ肉を出すレストランも併設しているが客が入っているのを見たことがない。火事で焼けて修理中。」
いやー、行く気をなくす解説だ。正直に書いてもらって助かる。きっと行ってもたいしたことはないのだろう。
すると余すところシェリービーチのみ。本当はディアニに行きたかったのだが1日かかりそうな感じだったので近場のシェリービーチに行くことにした。シェリービーチに行くには、フォート・ジーザスからトゥクトゥクで港まで行き、そこから渡し舟に乗り、対岸からトゥクトゥクで行くらしい。朝、乗って来た運転手がまだうろうろしていたので、彼に港まで行ってくれるように交渉した。「港は遠いからKSH100だなぁ」というので、「じゃぁ、もうあんたはいいから。他の人に頼むから」と歩き始めると、前方から別のトゥクトゥクがあらわれた。これを見た最初の男は「わかった、わかった、じゃぁKSH70でいいから」と慌てて値段を下げてきた。確かに港まではちょっと距離があるので、その値段ならいいだろうと乗り込んだ。
露天がたくさん出ている場所、そこが港だった。港というよりも渡し舟の発着所だ。
ここに到着する頃になって、運転手が「やっぱりKSH70じゃ割りに合わないなぁ。最近ガソリンも高いし、もっとくれないかなぁ」とグチグチ言い出した。「ええい、うるさい!交渉はもう終わっているんじゃ」とトゥクトゥクを飛び出して私たちは露天の中に走り去った。安い値段で客をひっかけておいて、後から値段を上げようとするのは私の経験では中東のタクシー運転手に多かった。さっきの彼もイスラム教徒の帽子を被っていた。アラブ商法ではそういうやり方が常なのかもしれないが、それは世界の常識ではない。申し訳ないが、価格が決まったら理由がない限り変更はないのだ。
ここの渡し舟は無料だ。本来なら橋をかけるところを渡し舟にしているので、道路と同じ感覚らしかった。
2台の渡し舟が動いていたが、それでもたちまち人、車、自転車がたまってきて、乗り込みとなるとケニアの原宿かっちゅうくらいの混雑になる。ケニア人庶民博覧会だ。
そういえば、椎名誠氏の「あやしい探検隊、アフリカ乱入」を読んでいたらモンバサに行くという場面で、ここの写真が掲載されていた。おそらくディアニに直行したんだろうなぁ。「真っ白な砂と真っ青な海でビール、ビール」みたいな事が書かれていた。私たちの体験しているモンバサは市内のホテルに宿泊して徒歩でフェリーに乗るというもので、椎名氏の豪遊とは大違いだ。
乗り込みが開始して降り始めるまで10分くらいの短い航行だ。まず車が降り、自転車が降りたら、人間が降りる。上から見ているとその流れが全て見えて意外に面白かった。
今日は日曜日だから特にビーチに向かう地元の人も多いのかもしれない。教会か親戚を訪ねるのかとてもお洒落をした小さな女の子も乗っていた。こうした人々の衣装や表情をたくさん見ることができるのが、ここの渡し舟だ。
船を下りて坂を上がっていく、こちらにも多くの露天が出ていた。
野菜、果物、魚の揚げたの、砂糖菓子、下着、洋服、電池やペンチを扱ったような小道具の店まである。皆、ゆったりと商品を手に取ったりしてショッピングも楽しみながら進んでいた。
露天がちょっと途切れる所にマタツが集まっている場所があり、ここの運転手にシェリービーチに行きたいというと、ここから左手に曲がった道の先からマタツが出ていると教えてくれた。
トヨタハイエースのマタツはこれでもかという程人を詰め込む。運転手を含めて15人が乗り込み、更に立ち乗りで助手が乗り込む。
シェリービーチまでの運賃は1人KSH15(=US$0.22)だった。
「シェリービーチってシェリービーチホテルかい?あのホテルは潰れているけど」と運転手に言われた。実はさっきタクシーの運転手にも同じ事を言われた。ホテルではなくビーチに行きたいというと、それならいいけどとマタツに乗せてくれたのだった。
マタツはつぶれたシェリービーチホテルの前に私たちを降ろすと、去っていった。ホテルの左脇の小道を進むとビーチに出ると教えてもらって、その道を進むと確かにビーチに出た。小道の左側は民家だ。
ビーチというか海草の詰まった水溜りみたいになっちゃっているここは、全くやる気のないビーチだった。椎名氏のいう「モンバサの真っ白な砂、真っ青な海」はここじゃないようだ。
がっくりして左に目をやると、向こうの方にもビーチらしい白浜が見える。あっちに行って同じ状況だったら、今日はもう帰ろうってことにした。
行ってみると、海草はあるものの数が減って沖の方に後退し、白い砂地が見えている。さっきの状況よりは大分ましだ。朝曇っていた空も、徐々に青空になってきて、海は美しい碧みを見せていた。
白く見える砂浜は薄いベージュの細かい珊瑚礁と白い貝殻からできている。シェリービーチの名の通りだ。
ただ外国の観光客がいない。泳いでいるのは観光客かもしれないがケニア人ばかりで、ワタムのイタリア人がたくさんいるような賑わい方は全くなかった。外国からの観光客がはしゃぐ国際的ビーチリゾートを期待していただけに、あまりの静けさに「ああ、ディアニにいきゃぁ良かったなぁ」としみじみと地味な気分に陥った。
それにしても暑い。いや熱い。上から直射日光で照らされていると、そのままバーベキューになってしまいそうな勢いだった。耐えられなくなると海に浸かる。で、またじーっと焼かれる。これはこれで気持ちいんだけどね。
そんなことを繰り返していたら、家族で遊びに来ていた近所のおじさんが話しかけてきた。この人はよくしゃべる。よくしゃべると思っていたら、以前教師をしていたのだそうだ。そこでお金を貯めて、ガソリンスタンドを始めたんだそうだ。奥さんが海岸の散歩にでかけてしまうと、乳飲み子を夫の膝において、「ちょっと見ておいてね」と自分は海に入っていってしまった。
膝に座っている方も、座られている方も、ともにとまどっている表情が面白い。子供は何が起こったのかがわからずに、しばらくキョロキョロしていたのだが、やがて親に置いていかれたことがわかるや、ウワーンと泣き始めた。
子供を引き取りにきがてら、おやじさんは「よかったら昼飯を食べにこないかね、家はこの近所なんだ」と言う。せっかく海に来たのだから、もう少しここにいたいという思いもあったが、こんな出会いも面白いかもしれないと、家に連れて行ってもらうことにした。
自家用車で舗装道路の両脇が商店になった村の中に入り、とある路地を曲がって村の中に入っていった。舗装されていない道の両脇はゴミ溜めのようにビニール袋やペットボトルが散乱していて、道路とは思えないくらいだった。民家の間をそろそろと走って、一軒の家の前で停車。「ようこそ、我が家へ」。
家は1階建てで、天井がなく吹き抜けになっている。屋根と壁の間の部分が抜けているので入り口から入った風がそこから抜けて、家の中は外のように爽やかな風が吹いていた。
おやじさんは、家の中を案内してくれた。夫婦の寝室、子供の部屋、キッチン、近い将来奥さんにやってもらおうと思っている食料品店。結構広い家だった。
奥さんがフライドポテトとフライドフィッシュの昼食を準備している間に、私たちは二人の結婚式の写真や家族旅行の写真などを見せてもらった。おやじさんは47歳、奥さんは27歳。何と歳の差20。6年前の結婚式の写真では奥さんはまだ少女の面影を残していた。
食事ができるとおやじさんと私たちが席についたが、奥さんは出てこない。「奥さんは?」と聞くと疲れて眠ってしまったという。あるいは男性と女性は一緒に食事をしない風習なのかもしれなかった。おやじさんは更にしゃべる。ラム島の出身で、ラム島から更に北上したキワユ島で教師をしていたのだそうだ。キワユ島といえば、私たちも行こうかと思ったが船でラム島から6時間かかると言われて諦めた所だ。そこから出てきて今はモンバサ、ケニアの第二の都市に住んでガソリンスタンドを営業している。「俺は頑張っている」という主張がワラワラと感じられるのだった。
この地域の連中は努力をしない、昔からの風習にしがみついて新しいことを始めようとしない、というのが相当不満らしかった。常に努力して、常に変革を行っている日本という国から来た人にこの不満を聞いてもらいたい。そして、変化を求めて努力をしている者同士、刺激のある会話をしたい、というのがおやじさんの希望らしかった。もっといえば、何か一緒に事業を起こしたいという野望まで、会話の中に垣間見えてきた。
相手を間違えている。日本という国は確かに日々発展し、前に行こうと努力をしてはいる。私たちも日々進化、前進したいとは思っている。しかし、それをケニアの人と何か商売をすることで行いたいとは思っていないのだ。私たちと刺激的な会話をしたいというおやじさんは、一人しゃべってばかりで私たちは口を挟む暇がなかった。おやじさんも何でこいつらは何もしゃべらないのだろうと、本当にあの進化する努力の発展し続けてきた日本人なんだろうかとちょっといぶかしげな表情になりつつもあった。私たちも聞かれれば自分達のことを話すのだが、何も聞かれないので、ただおやじさんの話を聞くばかりになってしまった。人をもてなすこと、人にもてなされること、というのは難しいなぁ。
別の話だが、以前出会った日本人女性旅行者に「外国で男性との出会いとかってないんですか?」と聞いた時の話を思い出した。言い寄ってくる素敵な男性がいても、「話しているうちに私の後ろにある日本のパスポートとか日本国籍とか日本のビザとかに魅力を持っているだけで、私に魅力を持っているわけじゃないのよねー、そんなのが見えちゃうと恋には落ちないの」と言っていた。
私たちは色恋沙汰ではないけれど、おやじさんからそんな色気を感じないでもない。さげすまれるよりはずっといいけど、過剰な期待というのも困る。おやじさんの期待通りの日本人ではなかったかもしれなかったが、私はおやじさんがたくさん話してくれたお陰で、ケニアの東海岸で生まれ育った人ってのをとっくりと知ることができて、それなりに面白くもあった。
食事も終わり記念撮影をしようってことになった。写真をプリントアウトして家まで郵送してほしいと言われた。実はおじさんは私たちが長期旅行者であることも知らないので、日本にすぐ帰ると思っている。思えばそんなことすら話していないのだった。
旅行中の身なので難しい、メールでなら送れるがというと、おじさん自身はメールをやらないので弟に大急ぎで携帯で連絡を取り、弟のメールアドレスを書いてくれた。
奥さんとはあまり話すチャンスがなかったのだが、「お子さん達、可愛いですねぇ」と言うと嬉しそうに笑っていた。
その横ではおやじさんが「一番目の娘はいいんだが、二番目の娘がどうにもお転婆で困ってるんだ。もし可愛いと思うのなら、このまま日本に連れて行ってくれないか」とあながち冗談ともつかない真顔でいう。おやじさんの野望は果てしない。それにしても何故お転婆な方をよこす。どうせならおとなしくて賢い一番目だろう、とつっこみを入れたくなった。
帰りは村の中を通って、おやじさんの経営するガソリンスタンドを見学してからバス通りまで案内してもらった。おやじさんも悩んでいるんだなぁ、きっと。というのが私たち二人の結論だった。自分は努力して一応事業を行う社長になったのだが、周りがついてこない、これからどうしていいのかわからないなど、色々な閉塞感がありそうだった。まぁ、私としてはとりあえず、村の裏通りのゴミ掃除を村人に呼びかけてみるってのはどうかと思うのだが。
帰りは同じようにマタツに乗って、フェリーに乗って、今度は又マタツに乗って帰ってきた。最後のマタツの中でも、「おお、日本人なら私に中古車を一台送ってほしいのだが。もちろんお金を振り込んだのを確認してからでいいから、送ってほしい」と突然言ってくる人がいた。葉書とか封書を送るのとわけが違うから、中古車は送れないんじゃないかと言うと、「日本の政府機関にケニアの友人に車を送るからと言ったらどうだろうか」ってあんたはいつからあたしの友人になったんだぁぁぁぁーーー!
よく知らないが、眉間に皺を寄せて「日本では中古車を外国に送るのはライセンスのある業者に限られているんですよ。」と嘘を言って解放してもらった。
日本のODAの橋をたくさん見かけたモンバサでは、日本人を打ち出の小槌のように思っているのだろうか。他の都市ではあまりない体験をした日だったなぁ。
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