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2007.11.22
世界遺産の遺跡、ファテープル・スィークリー
インド:アーグラー |
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アーグラーから南西40kmくらいの場所にあるというファテープル・スィークリーという何度聞いても覚えられない名前の都は、ムガール朝をムガール帝国にまで成長させたムガール朝第三代アクバル皇帝が、アーグラーからの遷都を計画して作った都だそうだ。
しかし、水不足が原因で14年後に引き払われてしまい、それほど傷みもなく今に残っているという遺跡なのだそうだ。
アーグラーを訪れた他の旅行者から「思ったよりもよかった」という感想を聞いて、私たちも行ってみることにしたのだった。
アーグラーのイードガー・バスターミナルからバスが30分ごとに出ているというので、宿からオートリクシャーでイードガー・バスターミナルに行くことにした。
昨日からオートリクシャーを利用していると、「オートリクシャーでファテープル・スィークリーまで行こうよ」というオートリクシャー乗りの誘いを頻繁に受けた。1日でタージ・マハル他全ての名所を回ろうと思ったら、30分に1本のバスでちんたら行っていられないので、タクシーよりも安いからいいやとオートリクシャーを使ってしまう観光客が少なくないのだろう。
だから、ずばりイードガー・バスターミナルに向かうように言わなくっちゃならない今日は、思いっきり誘ってくるだろうと思っていたら、やっぱり聞いてきた。
「今日はどこに行くの?ファティープル・スィークリーに行くなら、このまま乗せていってあげるよ。」
「ええっとぉ、ちょっとバスターミナルまで行ってバスの時間を確認するんだ」というと、だったら確認するまで待っているからと言ってくる。ああ言えばこう言うで、インド人ってのは本当に商売熱心というか、空気を読まないというか、自分の利益だけを追求しているっていうか、必死になっている。
まぁ、何とか断って料金を支払おうとRs50を渡すとつり銭のRs10がないという。たぶん持っていてもないという。これもよく聞く話だ。Rs10というと30円くらいなのだが、そうやってずるずると取られるのが癪に障るので、近くの店をいくつかまわって両替してもらうことに成功。ぴったりRs40を支払ってさよならしたのだった。別に向こうは何とも思っちゃいない。「ありがと!」ってな具合で立ち去っていった。
バスターミナルにはチケット窓口があり、ファテープル・スィークリーに行きたいというと一人Rs22(=US$0.56、2007年11月19日の換算レートUS$1=Rs39.34を使用)を売ってくれて、バスがきたら声をかけると言ってくれた。
オートリクシャーで往復したら1日の待ち時間もあわせて二人でRs300からRs400くらい取られるだろうと思うと、バスは本当に安い。
10時半にバスがやってきて、窓口の係員が何かを放送するとどやどやと人が集まって乗り始めた。係員は私たちにも声をかけてくれて、私たちも乗り込むことになった。
ガイドブックには1時間から1時間20分と書かれていたのに、10時40分に出て到着したのは12時30分。1時間50分もかかった。というのも、途中のとても小さな町の交差点が大渋滞になっていて全く車が動かない30分というのがあったからだ。
交差点の各方面には車がほんの10台くらいしかたまっていない。ところが信号がなく、誰も道を譲ろうとしないとこういう事がおきるんだっていうのは、驚きに近かった。少しずつでも誰かが譲り合えば動くのに、時間が経つほどに誰も譲らなくなり、とうとう見るに見かねた近所のおっさんが交通整理に乗り出してようやく事態が解決されたのだった。バスの中はバスの中で、乗客が運転手を無能呼ばわりしたために、運転手がぶちきれて怒鳴り返すという場面もあり、「ああ、何てバカばっかり」とかなり笑える状況だった。ファティープル・スィークリーに行く人は本当に時間に余裕をもっていかないと、何が起こるかわからないのがインドらしいちゃぁインドらしい。
思ったよりも時間がかかってしまったので、到着してすぐにお昼ご飯。バスターミナルからすぐ裏手に既に廃墟のようなものが見えているのだが、メインストリートを少しいって右に丘を登った所が入り口になるようだ。村のメインストリートらしき通りが始まるすぐ左手に地元の人もご飯を食べている食堂があったので、そこで簡単にお昼を済ませた。アーグラーのように観光客ずれしていなく朴訥な感じでよかった。そうそう、おかわりも無料でさせてくれたしね。
メインストリートをぶらぶらと歩いきながら、近所の人に道を聞くと、こっちこっちと脇道を指差す。本当に脇道で、こんな所からいけるのだろうかといぶかしむような道だった。途中の井戸水ではキーコ、キーコと水を流しながら頭洗っているおばちゃんがいるし、パンツもはかずに走り回っている子供が遊んでいる。
しかし、坂道を上がっていくとどうやら入り口のような雰囲気が見えてくるのだった。
やがて道はブランド門と呼ばれる最初の入り口の階段の下に出る。ここから見ると、大きくて立派な遺跡にやってきたという実感が沸いた。
同時に、階段の下に駐車場があり道路が右側に続いているのを見て、今私たちが歩いて来た人間しか通れない道は、外国からの団体観光客やインド人で車を持っている階層の人間が通らない道なので、なんだか牧歌的というか日常生活丸出しだったんだと気付いた。遺跡への表向きの顔はこちらの自動車道にあったというわけだ。
階段をあがって、ブランド門の前に出ると、門は細かく装飾が施されて下から見上げた時の高圧的な雰囲気よりはずっと素敵に見えた。門の前には美しいサリーをまとったインド人観光客や白人観光客とそれにまつわる地元の子供の姿も見られて、世界遺産に指定された有名観光地の雰囲気をかもし出していた。
最初の門は回廊式に四角く中庭を囲った建物の一部なので、門の下に入ると左右に長く続く廊下が見える。アーグラー城でも見たが、この赤い砂岩というのが独特の雰囲気を出していてなかなかカッコいい。
門をくぐった正面には、2つの小さな建物がある。これらは皇帝に仕えた聖者の墓で、左側の白い方がアクバル皇帝に息子が授かると予言してあたたサリーム・チシュティー廟で、その孫のイスラーム・カーンの墓が右側の赤い砂岩でできた建物だそうだ。
インドなのにモスク?と思ったのだが、ムガル帝国の初代の支配層はモンゴル系やトルコ系だったというガイドブックの解説を見ると、ふむふむトルコといえばイスラム教徒だからモスクもあるんだなぁと理解できる。しかし、モンゴルといえばまた別の宗教だろうし、この後、第三代皇帝としてこの都を作ったアクバル皇帝の時代には、広大なインド支配を視野にかつての敵だったヒンドゥー教徒も登用するなどしているということで、インドというと一様にヒンドゥー教のイメージだったが、歴史の中ではイスラム教の影響が強い時代もあって、色々と混じっているんだなぁということを実感する。
こういうことって世界史などで学んでいるのかもしれないが、ちーっとも覚えていない。でも旅をしていると、自然な感覚としてインドにどうしてモスクがあるんだろう?という疑問が沸いてきてガイドブックの歴史のコーナーも思わず熟読してしまったりするから不思議だ。
さて、この回廊で囲まれた一角はモスク地区と呼ばれていて、入場料は支払わない。ブランド門から入って右手の門から抜けて小道沿いに歩いて行くと宮廷地区になるのだが、そこで初めて入場料を支払うことになっていた。一人Rs250とインド考古学局に支払うADAがRs10で合計Rs260(=US$6.61)だった。
宮廷地区は何というか整然としていないのが面白い。建築の専門家じゃないので、素人旅行者の感覚として言うのだが、一つ一つの建物はゆったりと幅が取られて建てられているので決して窮屈なわけではないが、期待する場所に建物がなかったり、向こうに建物があるのにそれをふさぐように別の建物が建っていたりして、歩いていて「あれ?」という感覚に陥るのだ。見学順路とかいうものも特にないし。敷地内にシンメトリーに建物が配置されていると、左にあったら右にもあるという安心感のようなものがあるのだが、そういう安心感がない。
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縦に3枚の写真をつなげているので、柱が途中で曲がって見えて
しまうが、もちろん実物は普通にまっすぐです。 |
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それにしても、目に見えるいたる所が赤い砂岩でできた建物というのは、なかなか素敵な風景だった。
壁肌が微妙に色が変わっていて大理石のようにマーブルに見えて面白いし、近寄ると非常に細かい細工が至る所にされている。庇から壁に向けて段々の飾り模様が作られているのだが、ここさえも石で彫られているというのが見事な技術だった。
もっともこれらは修復されていると思われる。砂岩は大理石などと比べるともろい素材だろうし、1571年に遷都されたということだから既に400年以上が経過している。ある場所は非常に模様が不鮮明になっていていて、たぶんそういう所がオリジナルのままの部分ではないかと思われた。
やがて見えてくる5層の建物も変わっている。デコレーションケーキのように上にいくほど小さくなっているし、片側は途中の建物に遮られて終わっている。私はそれほど異様には感じなかったが、建築をやっていた夫から見ると大層変わっている建物みたいで、しきりに面白いとつぶやいていた。
ガイドブックによると、この建物はパンチ・マハル(五層閣)と呼ばれていて、この建物前の中庭に大きなチェス版があり、ハーレムの女性を駒として立たせて上から皇帝がチェスを楽しんだのだそうだ。
このパンチ・マハルの下をくぐっていくと、左手にまたまた変わった建物、正面には池と緑の芝生が見える。
変わった建物の手前はパンチ・マハルから引き続いた屋根になっているのだが、この屋根の下の庇の装飾もすごい。蛇のようにうねりながら中央にのぼっている。これも石でできている。実際に目にすると石という素材の重さがぐぐっと伝わってくるのだ。
そして四つ角にピョーンとお碗を伏せた屋根の塔が付いている建物は、貴賓謁見の間だそうだ。外側も変わっているのだが、部屋の中心にある柱が仰天する。
上から「くの字」になった装飾がぶりぶりぶりーっと垂れ下がって半分くらいを埋め尽くしているのだ。美しいというよりも「重い」という感覚がまずくる。ものすごく「重い」ものが天井から吊り下がっている。貴賓謁見というが、ここを訪れる人にかなりのプレッシャーを与えたに違いないと思える場所だった。
この先には緑色の池とそこに浮かぶステージのようなものがある。これも何か意味があるのかと興味深いのだが、ガイドブックにはここについての記述が何一つされていなかったので、よくわからなかった。
宮廷地区は説明すべき建物や彫刻がたくさんあるらしく、途中で出会った日本語が話せるガイドさんはものすごい勢いで日本人客に色々なことを説明していた。インド人のガイドさんは私たちを見ると「お、自由旅行ですか?」と話しかけてきて、「インドはほんっとーに騙す人が多いから気をつけなさいね」と忠告してくれた。いやいや、あなたもインド人じゃないですか。と喉元まで出かかったのだが、インド人は同じ国民でもあまりに多様であまりに多階層にわかれているので1つの国民としての意識が日本人よりも薄いのかもしれないと思った。これもまたインドなのねぇ。
ファティープル・スィークリーはタージ・マハルよりもずっと観光客が少ないが、見る所も結構あって面白い。といってもゆっくり見て1時間くらいかな。周囲の村は別に見るべきものはないのだが、ひやかしで食事したり土産物屋に入ったら面白いかもしれない。
帰りも同じ場所からバスが出る。今度は妙な渋滞もなくスムーズに帰って来られた。バスが到着する場所にはオートリクシャーが待ち受けていて、来た時の倍額のRs80から値段交渉が始まった。
いやいや、Rs40で来たからと押し通してRs40で決着。地元の人はRs30で乗っているらしいのでちゃんと観光客値段を支払ってあげているのだから、これで我慢してほしい。不満ならもっと気前のいい観光客をつかまえることだ。
値段交渉していたおやじと値段がきまると、運転手のまだ少年といってもいいくらいの青年2人がやってきた。どうやらおやじが元締めらしいので、上前をはねられるのだろう。この2人は本当に新米らしくおやじから道を何度も聞いて教わって出発した。やれやれ。途中までくると私たちの方が詳しいので、「もう少しいったらこっちに曲がってー」と指示して無事に宿に到着。宿に到着したのは午後4時で、ファティープル・スィークリーはほぼ1日仕事の観光となったのだった。
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