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2007.10.27
ABCへのトレッキング第七日目
ネパール:ポカラ |
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一夜明けて足も少し休まったものの、だんだん体が疲れてきている。ジヌーに到着して温泉で体を癒すのが、今日歩くためのモーチベーションだ。
とはいうものの、今日のコースはアップダウンが激しい。バンブーを出てシヌワまでは帰り道にもかかわらずやや上り。下の地図だとバンブーは2340mってことになっているが、別の地図では2190mと書かれている。感覚的には2190mが辺りじゃないかなぁ。バンブーはちょっと下がった場所にあるようだった。
シヌワからは恐ろしく下って川辺まで下りる。そしてすぐに川辺から山の上の方のチョムロンまで上がるという鬼のアップダウン。チョムロンからジヌーまではひたすら下るだろうが、下りも体が疲れてくると上りと同じくらい、いや膝の痛い夫にとってはより苦しい道になるだろう。温泉への道は考えただけでも厳しそうだった。
ちょっと遅めに朝8時に出発。バンブーからはマチャプチャレの山頂がほんのわずかに見えるだけだった。
ここからシヌワに向けて坂を上がっていくに従って高度もあがるし山の陰がなくなって再びマチャプチャレが見える地点にやってきた。
昨日の朝は、あのマチャプチャレを見下ろすABCにいたのに、そこから山をいくつも回り込んで今はここに立っている。人間っていうのは案外歩けるもんなんだなぁと感心すると同時に、これだけ歩いたら足も痛くなるはずだと妙に納得する風景だった。
ここはバンブーから歩いて1時間の地点である。
上の地点から15分歩くと前方にシヌワ村が見えてきて、更に15分歩いて9時半頃村に到着する。
行くときにも立ち寄った景色の良いカフェで休憩だ。バンブーよりも高い位置にあるし、景色が開けているのでマチャプチャレやその先の山も見える。この時は少し雲がでてきてしまって見え辛かったが、晴れると相当素敵な景色が見られるカフェだ。
本当は昨日のうちにここまで来て一泊してもいいねぇ、なんて話をしていたのだがとんでもなかった。ここまで来ていたら完全に足が壊れてしまっていただろう。
ここで、どうにも足が痛くて我慢ができなくなった私はクロックスというサンダルに履き替えることにした。ここから先は民家も多くなるしトレッキングの道は石段など平らな部分が多い。このサンダルは石が尖っていたり、木の根がぼっこりと出ている道で履くと壊れそうだが、平らな場所なら大丈夫だと思ったからだ。
私の足の問題は靴のプラスチックカップがくるぶしに当たるというだけだったので、サンダルに履き替えたら嘘のように問題は解決。途端に元気モリモリで眉間の皺も消えたってわけだ。
30分休憩して午前10時にシヌワを出発。村を出てしばらく歩くと自分が今歩いている山の、もう一つ向こうの山の上にチョムロンの村が見える。そう、ここからこの山をだーっと下って向こうの山をだーっと上る鬼のジェットコースターロードが始まるのだ。
サンダルに履き替えた私は気分爽快だが、相変わらず膝が痛い夫はこの光景に内心悲鳴をあげたに違いない。
10時20分にシヌワの下村に到着。チョムロン村を乗っけた山がいよいよ目の前に迫っている。
ここで休憩していると宿のご主人がパッサンに牛肉の醤油煮込みみたいなのを差し入れしてくれて、パッサンが私たちにほとんどくれた。
この辺りで育てている牛や鶏は、ポカラでは大量に飼育されている牛や鶏よりも高い値段で取引されている高級種なのだそうだ。
この素朴に見える牛肉の醤油煮込みも滋味に満ちていて非常に味が濃くておいしかった。パッサンにあげたのに客の私たちが横取りしていると見た宿のご主人に「何を飲みますか?」と半ば強制的に飲み物をオーダーさせられてしまったが、それに見合うだけの差し入れだった。そーだよねー、何か注文しないと。
下村からは石の長い階段で一気に川辺まで下りることになる。ポーターのバラットや私は駆け抜けるように降りてきて10分くらいだった。
道を下る時は一歩一歩に体重をかけて下りるよりも駆け抜ける方が膝への負担が少ないのはバラットや現地の他のポーターの歩き方を見ていると一目瞭然だった。
逆に上る時は、できるだけ小刻みに足を動かす。大股一歩で階段を上がるよりは階段の端の坂道を三歩かけて上ったほうが腿が痛まない。これはボリビアの現地人の歩き方を見て知ったのだが、ここの人たちも同じように足を運んでいた。
川を渡ると、ここからは下りなしの上りばかり。
斜面の中腹からは村人の生活が始まり、民家があり畑がある。今は粟が赤い穂先の花をつけて、小ナスのような実をつけた木がよく見られた。小ナスのような実はよく見るとアフリカでも見たフルーツトマトだ。中はトマトのようにゼリー状の中に種がたくさん入った植物で、種の周りの果肉部分が薄甘くて酸味もある。アフリカでは果物として扱われていた。
村の中で休憩。はだしで元気よく走り回る女の子の健脚ぶりがうらやましい私たちだった。それにしてもこの辺りの人の顔は日本人によく似ている。すれ違う人々もどこかで今までに出会ったことがあるような顔をしていた。
11時50分、まだ上村に入ったばかりで一番上に行くには遠いのだが、ここで昼食を摂ることにした。
Moon Light Houseというこの宿のローストチキンは出てくるまでに時間がかかってヤキモキしたが、来る時に別のチョムロンの宿で食べた牛ステーキとは比べ物にならないジューシーさで分量もまずまず多くてとても良かった。同じ村でも宿によって食事のレベルが大分違うみたいだ。
さて、ここからパッサンは私たちの宿に電話をかけた。この辺りで唯一電話ができるのがチョムロンなのだ。
昨日の夜、パッサンが他のガイドから仕入れた情報によると、マオイスト(反政府組織)が私たちが明日のトレッキング終点と考えていたナヤプルに出没しているというのだ。マオイストは活動資金をトレッカーから集金することにしていて、昨日出会ったガイドの客は一人一日NRS100を集金されたのだそうだ。この客はパーミッションの日付が8日前になっていたので8日分、つまり一人NRS800(=US$12.12)も支払ったことになる。
え、どの人?とよく話を聞いたら、オランダ人旦那に「ヒーターはいらない」ときっぱり断ったスキンヘッドのイスラエル人女性とその女友達の2人だったということがわかった。そうかぁ。余計な金を払いたくないという態度の裏には、マオイストにお金払って腹が立っていたっていう理由があったのかもしれないと、今になってわかった。
この情報を受けて、パッサンは明日のコースをナヤプル終点ではなく、途中のシャウリバザールから南にそれてチャンドラコットを抜けてルムレLumle終点にしようと提案してきた。ルムレはマイナーな終点地なのでここにはマオイストはこないと考えたのだ。さすが、パッサン。私たちはこの変更を承諾し、パッサンは宿に連絡して終点地の変更を伝えることになったのだった。私たちは宿経由でタクシーを依頼している。運転手は宿の主人の親戚筋らしいので、宿に電話して運転手に伝えてもらうことにしたのだった。
午後1時きっかりにトレッキング再開。
10分も歩くとチョムロン村の一番高い部分を乗り越えて、今度は向こう側に下る道に入った。石畳の階段の脇の斜面から下の方に村が見えている。そこがジヌーで、もっと下がった所に川が流れている。ジヌー村から川沿いの温泉までかなり下っているということが、ここから見て取れた。
30分も下ると、見覚えのあるお花畑のジグザグ道だ。上ってくる時に下から見上げていたよりも花が良く見えてずっといい感じ。
ここを過ぎて尚下る、下る。午後2時頃に団体が上ってくるのとすれ違った。パッサンはかつては自分もこういう仕事をしていたのだと思い出すように言った。
初めてポーターとして行ったのが今回私たちの行ったABCだったそうだ。15年も前のことになる。当時はロッジが1つしかなく、ポーターは何と外にテントを張って寝ることになっていたそうだ。45kgの荷物を運ばされてくたくたな上に、極寒のABCのテントなんて疲れが癒えるわけがない。自分はとんでもない世界に足を踏み入れてしまったなぁと愕然としたそうだ。
それから数年間はポーターとして働いていたが、お客さんから教わったり参考書を見ながら独学で英語を学んで、今はフリーでガイドとして仕事をしている。休憩時間になると胸ポケットから英語とネパール語の対訳参考書を取り出して勉強している。そんなパッサンだから、こういう団体の荷運びをするポーターの中に自分と同じ年恰好の人がいると、ついつい「今日は何キロ運んでいるのか、賃金はいくらか」と聞いてしまうのだ。普通の規定では30kgとされている重量なのだが、すれ違ったポーターさんは45kgを運んでいた。15年前のパッサンと同じだ。それで日当はNRS300(=US$4.55)。「俺が努力して築いてきた今のポジションは間違っていなかったんだ」という事を確認するかのように、私たちに重量と賃金を教えてくれるのだった。
明確な規定がないとはいえ、大手の旅行代理店のツアーグループのポーターは、なぜ通常よりもかなり重い45kgもを背負わされているのか疑問だったのでパッサンに聞いてみた。すると、大手旅行代理店はポーターとガイド費用でいくら、というように丸めた数字で外注のガイドを雇う。ポーターの実際の雇い主はガイドになっていて、ガイドが強欲だと少ない賃金で重い荷物を運ばせるという話だった。大手旅行代理店はとにかく経費は支払っているんだからと、ポーターが何キロの荷物を運んでいようと関知していないという。だったらポーターが拒否すればいいじゃないかと思うが、そうすると年配のポーターは仕事がなくなってしまうので、安い賃金と重量の荷物に甘んじるしかないという現実があるようだ。
この坂を下りると、目の下にジヌーの村、その先に川をはさんで脈々と続く山間の景色が見えた。坂を30分も下っていくと村に到着。一番奥のナマステゲストハウスにチェックインしたのだった。
荷物を置いて私たちは早速温泉に向かう。
来る時は、温泉につかった後も歩かなくてはいけなかったのでせわしなかったが、今日はここで宿泊なので4時くらいまでゆっくりできそうだ。
風流な小道を歩く足取りも軽い。途中には苔むした大きな岩などもあって、高級旅館でもこんなに気の利いた庭園は作れないだろうという趣である。自然の手腕は全く素晴らしい。
着替えて温泉につかったのは午後3時ちょっと前。MBCやABCで出会って言葉を交わしたドイツ人カップルに再会。こんなリラックスした場所で、あの景色の素晴らしさを共有できるっていうのが嬉しくて、私たちは「いやー、上は良かったよねー、素晴らしかったよねー」とバカに陽気に挨拶を交わした。
2つの温泉の間の打たせ湯で頭と体を洗って気分も爽快。お湯に入ったり出たりしながらゆっくり過ごした。
手前の湯船には陽気なポーランド人の男性がいた。彼は東西冷戦の頃からネパールの美しい布を買い付けにきては自国で仕立てて売るという商売をしているそうで、かなり昔からネパールに来ているそうだ。せっかくネパールに来たのだからと始めたトレッキングの虜になり、「今ではトレッキングがてら商売するくらいの勢いさ!」とかっかっかと大声で笑った。冷戦が終了してからは生地だけでなくアパレル製品も仕入れることになり、彼の商売はうまくいっているようだった。今日はまだ下まで歩いて行くのでお先に失礼と、友人と連れ立って去っていった。
次に入ってきたのはインド系ネパール人のガイドを連れた中華系マレーシア人の若い男性2人連れだった。先に入っていたマレーシア人の客に「湯加減はどう?」とガイドが聞くと、マレーシア人は「お前だけには教えない」と言っているので、どういう会話の流れなんだろうかと思っていた。
私の不思議そうな表情を見て、マレーシア人の男性は「いや、うちのガイドはノーティーnaughtyだから、これくらい言われて当然なんだよね」と言う。ノーティーってのはいたずらっ子っていうか、小憎らしい奴って感じだと思う。確かにこのガイドはいかにもそんな顔をしていた。
彼らはゴレパニからプーンヒルという3198mの山に上ってこちらに来て、ここからダンプス経由でポカラに戻るということだった。プーンヒルからは私たちが行ったアンナプルナの山々と、左手にはもっと遠くにニルギリの山々も見えるビューポイントとして人気も高いが、アンナプルナ・ベース・キャンプ程には山が近く見えない。私たちがABCまで行ってきた帰りだというと、マレーシア人は「ほほー、凄いですねぇ、ABCまで。素晴らしい景色だったんじゃないですか?」と言った。これを聞いてノーティーなガイドが「いや、プーンヒルもABCも同じ同じ。山は山なんだから何を見たって全部一緒だよ。」とちゃちゃを入れた。
マレーシア人はガイドに「全部同じなんて言ったら、わざわざ日本人がここまで来るわけがないでしょ。富士山みてればいいんだから。山は一つ一つ違うから価値があるんだよ。まったくもー」と呆れたように言って、「ね、こいつ、ノーティーでしょ」と私たちに言った。本当だ。しかも英語が思いっきりインドなまりなので、余計にノーティーに聞こえる。このガイドとどこで出会ったのかと聞くと、ポカラの町を歩いていたら声をかけてきて値段が折り合ったから雇ったのだという。こういうガイドの雇い方はちょっと危険があるなぁと感じた。安いのかもしれないが、私たちのパッサンは絶対にこんなことを言わないし、信頼できる人だったので、本当にいいガイドと一緒で良かったと、やっぱり雇うならシェルパ族だと実感したのだった。
そうこうするうちに、残っているのは私たちだけという状況。時計を見たら4時になっていた。色々な人がいて、なかなか楽しいお風呂だった。
上にあがって、まだ明かりの残る中庭でビール、ビール。ビールは350ml1缶NRS130(=US$1.97)。ポカラの町中のスーパーでは640ml入りが1瓶NRS110だから倍額くらいしていることになる。ちと高いな。でも、ここで飲まずにどこで飲む。トレッキング後の風呂上りの一杯。うーん、おいしい。
※ここで鼻の頭が赤くなっているのは酔っているのでなく、ABCの日差しによる日焼けです。日焼け止め塗ってなかったから。気をつけましょう。
夕食を頼もうとするとやけに食堂が閑散としている。パッサンがやってきて、「自分が以前ここを利用した時とオーナーが変わってしまってよくなくなった、この分だとご飯もまずいのではないかと心配だ」という。何?何が悪くなったのかと聞いてみると、以前はローカル値段でタバコを売ってくれたのに、今度のオーナーは観光客と同じ値段を言ってきたというのだ。やれやれ、それはご飯の味とは関係ないだろうと思われたので、私たちはそのままここで食事をすることにした。白人観光客はもう少し上の方にあるエバーグリーンという宿に多く宿泊しているようだった。
今日は食堂に他のお客さんもいないこともあり、パッサンとバラットも一緒に私たちと食べることになった。昼間見た重い荷物を運んでいたポーターの話に始まり、そういう事態をどうにかしようとする人はいないのかとか、日本には漁協とか農協とか会社には組合があると言うと、何とあのマオイストがそういうルールを作ろうとしているのだという話になった。え、そーなの?何だか意外な気がした。そういう意味ではパッサンはマオイストに賛成なのかと聞くと、自分達を守ってくれるルールを作ろうとしているのはありがたいが、自分は学問もなくて難しいことはわからないのだが、自分の直接のお客さんから金を取るというのは非常に困る。だから自分は明日マオイストを避けようとしているのだと答えた。
お客さんによっては、万が一マオイストに出会ってしまった場合に、責任をガイドに詰め寄ることもあるのだろう。あるいは徴収された金を差し引いてガイド代金を渡すかもしれない。そうしたら、ガイドの首をしめていることになる。これじゃぁ、やり方が逆効果だ。話し合いを持ちかけるなら大手旅行代理店に言うべきだろうな。
マオイストに出会った時のエピソードもパッサンにはたくさんある。アメリカとイギリスはネパール政府に助成金を出してマオイスト駆逐の手伝いをしているとマオイストは考えており、出会った観光客がアメリカ人かイギリス人の場合は一人US$50を徴収しているのだそうだ。ということで、パッサンはアメリカ人グループを率いている時に事前に「マオイストに出会ったらドイツ人だといってください」と指示しておいた。お陰で彼らはUS$50ではなく、通常の料金を支払ってすんだのだそうだ。
また中国人グループのガイドをしている時が大変だったそうだ。一人一日NRS100という原則があり、それにのっとって「一人いくらになるので、申し訳ないが支払ってほしい」というと、中国人はディスカウントを交渉しろとパッサンに詰め寄った。駄目だろうなぁと思いながらもマオイストに客がディスカウントを要求しているので、いくらかまけてくれないかというと、「反政府組織への寄付金に対してディスカウントなんて聞いたことがない。」と物凄い剣幕で言われてとても怖かったそうだ。このままだと命が危ないと何とか中国人を説得して支払わせたのだそうだ。
「ディスカウントしろなんて!」とパッサンは今は笑い話としてこの話を思い出しながら、パチリと額を打ったのだった。
ところでバラットは今回のポーターが初体験らしいけど、このままポーターやってゆくゆくはガイドになるのだろうかと聞いてみた。ネパールには国内にこれという産業がない。だからとても多くの人々が国外に出稼ぎに行っているのだそうだ。その結果、盆と正月を合わせた10月のお祭りが帰省ラッシュになって、なかなかチケットが取れないというのは私たちも経験済みである。
出稼ぎ先としては裕福なアラブ諸国に行くか、近場としてはインドになるそうだが、一番収入が高くて人気なのがシンガポール軍に入ることだそうだ。給料もいいし英語も学べて一石二鳥で競争率が高いんだそうだ。出稼ぎ先が軍隊というのは、まぁフランスの傭兵なんか有名だからあるかもしれないが、国の名前を冠した軍隊が外国人を雇い入れているという方に驚いた。シンガポールとネパールで国益が対立して2国間の紛争というのはまず考えられないからいいのだろうか。
バラットもシンガポール軍に入りたい?と聞くと「それもいいかもしれない」みたいな返事にこれまたびっくり。本当に身近な話としてあるんだなぁ。
こんなおしゃべりとしていると、宿の外からものすごい怒鳴り声が聞こえてきて、私たち4人は何だ何だと外に出てみた。すると、上の宿の食堂で一人の白人老人が宿の男性の胸ぐらをつかんで張り倒さん勢いである。しばらく喧嘩が続いていたが、白人の方が何やら捨て台詞を残して去っていき一件落着。パッサンが事情を聞いて教えてくれるには、白人男性はドイツ人で、自分が可愛がっている犬がいなくなってしまい宿の人にどうしてくれるんだと詰め寄っていたということだった。
この白人爺さん、そういえば風呂にも入っていたけど誰とも口を聞かずにしかめっ面で妙な人だった。そういうと、パッサンは更に教えてくれた。この男性はドイツ人でよくこの辺りに出没するらしい。時には近くの洞穴に寝泊りしてレストランで食べるだけ食べて食い逃げしたこともある、厄介ごとの常習犯で誰もが知っている有名人なのだそうだ。今回も愛犬といっているが、恐らく数日を一緒に過ごした野良犬が餌もくれないにわか主人に愛想をつかして出て行ったのではないかということだった。相棒がいなくなった悲しさを宿の人に八つ当たりしていたのではないだろうか。ジヌーにはこんな人もいるようだ。
後日、この爺さんが相変わらずしかめっつらでポカラでバイクに乗っているのに遭遇。偶然パッサンといたので、「おお、ほらジヌーで怒鳴っていたドイツ人だ、あれあれ」と教えてくれたのだった。常にジヌーにいるわけではないようだ。
ドイツ人爺さんのハプニングで、まぁお開きにしましょうということになり各自部屋に戻って就寝。さぁ、明日はいよいよ最終日だ。
この日の食事については「本日の献立2007年10月27日」をご覧ください。
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