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2007.12.21
チェンマイトレッキング第1日目
タイ:チェンマイ |
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ツアーは午前9時半に昨日連れてきてもらったツアー会社のカウンターに集合する所から始まった。
昨日到着した時点で持っていくべきものリストのリーフレットをもらったのだが、バンコクに荷物を置いてきてしまっているので今更もらってもねぇという紙。バンコクを出発する時にくれればよかったのに。ということで、今後バンコク発ででかけるかもしれない人のために、イラスト付きでなかなか可愛いし下記にコピーを掲載しておく。
○必携の品
Tシャツ、ショートパンツ、長いパンツ、タオル、ソックス、長袖シャツ、
サンダル、ウォーキングシューズ、水着、石鹸、シャンプー、歯磨き一式
蚊除けスプレー、デオドラント(筆者注:必要か?)、日除けクリーム、
救急医療用品(痛み止め、胃薬、バンドエイド、消毒薬)、
トイレットペーパー、懐中電灯(筆者注:ヘッドライトの方がいい)
なかなか妥当なリストだと思う。チェンマイはかなり北部になり、1泊目の宿泊は標高がやや高い山中の村。12月は朝晩が冷え込みフリースと長ズボンが役立った。また宿泊所には電気がない。懐中電灯よりもヘッドライトがあるとトイレなどが便利。また、トイレは手桶と水が用意されているが慣れていないならトイレットペーパーは必要。あと、村で飲み物を売っていたり、初日に子供達の演奏に対するチップが必要なので多少の現金も必需品になる。
○季節による追加品
12月だったがジャケットまでは必要ではない。厚めのフリースか薄いフリースと風を通さないウィンドブレーカーがあればいいと思う。寝袋は必要。これがないと寒くてよく眠れないだろう。
9時半過ぎに車がやってきてみんなで乗り込んだ。
ピックアップトラックを改造して屋根を付けた感じの車で荷台に横向きのベンチが左右に取り付けられていて5人ずつ座る。かなり詰め込まれるなぁ。ガイドの男性はチェンマイの出身だそうで明るくて英語も上手く話も面白い。この人とこれから3日間楽しそうな予感だ。
山中に入るためには警察に届出を出さなければならないそうで、まずは警察署に向かうことになった。
リストを見ながら一人ずつ顔の確認をしてくれた警察官は何とアメリカ人。定年退職してからチェンマイに来てボランティアでこの仕事をしているのだと語っていた。色々な国から来た人と短い会話を楽しんで仕事をしているようで、なかなかいい老後の過ごし方だなぁ。チェンマイは日本人の定年退職者も多く滞在していると聞いているが、みんなどうやって過ごしているんだろうか。楽しんでいるんだろうかと少し気になった。
11時に到着したのは地元のマーケットだった。ガイド氏はここで私たちの今後の食料調達。私たちはマーケット見学で50分くらいをここで過ごした。マーケットはバンコクのカオサン周辺の観光客向けとは違ってローカルが対象。売られている物も珍しいものが多く、なかなか楽しい。
このきのこがおいしそう。
隣の野菜かハーブはどうやって使うのか
興味深い。 |
虫、虫、虫・・・。
この他にもたくさんの種類の虫のローストが。
誰も勇気がなくて試食も断ってしまった。 |
蜂の巣そのまま。蜜を食べるのか
蜂の子を食べるのか? |
こんにゃくのようにも見えるが
何かの血の塊かもしれない。 |
ローカル対応のマーケットだが
観光客目当ての少数民族の物売りもいる。
え?そんな帽子?でも意外に売れていた。 |
マーケットはこんな気楽な感じ。
台の上に品物が並ぶ。
フライドチキンや魚もおいしそう。 |
まだ午前中だというのに、早速フライドチキンやら腸詰を頬張っている人もいたが、誰も勇気がなくて虫のローストには挑戦できなかった。見ていると魚のトラックがやってきて、保冷ケースからビチビチと元気に跳ね回る魚を大量にすくって買っていく店の女主人もいた。新鮮な食材がこれでもかと溢れたマーケットで、タイの食文化の奥深さを体験できる。旅程に「最初にマーケットに行く」と書かれていたのを見た時は、どうせクラフトなどの土産物屋に連れて行くのだろうと思っていたのだが、本当に生活に密着したマーケットで思っていたよりもずっと面白かった。
12時半にトレッキングスタート地点に到着し昼食。素朴な感じのお母さんたちが食卓の用意をしてくれた。内容は炒飯とフルーツ。ひなびた農家の庭先で食事をしているような感じだった。食後の時間になると、ちりりん、ちりりんと鈴を鳴らしてアイスキャンディー屋のおじさんがやってきたが、誰にも売れないのはかわいそう。って私も買わなかったけどね。
午後1時。いよいよここから車を降りてトレッキングの開始となる。ガイド氏は短パンにサンダルという軽装ながらも、途中の枝を切るためなのかナタを背中に担いでいた。午後4時半まで3時間半のトレッキングだったが、この3日間で一番長くて厳しいと聞いていたのでちょっとドキドキだ。
ナタを見てどんな藪の中を切り開いていくのかと思っていたがトレッキングパスは舗装こそされていないが多くの人が歩いているちゃんとしたパスで、一列になってガイド氏の後ろを歩いて行くので苦痛はない。ただ、普段あまり運動をしていない人は上りが多く気温も上がってきているので、坂道がなかなか辛そうだった。
それにしても休憩が多い。数ヶ月前にハードなネパールでのトレッキングを終えてきた私たちには逆に疲れると思われるくらい。暑いからこれくらい休みながらいかないと駄目なのかなぁ。
途中でこんな台のある場所を通り、象に乗るための台だと説明を受けた。この辺りでは象が労働力として使われていて、所々にこうした台が設置されているのだそうだ。
午後2時5分。ここまで上りが多い道のりで全員汗だくになってきていたのだが、耳に心地よい水音が聞こえて滝つぼに到着。ここでちょっと長めの休憩だ。
私たちはクロックスでトレッキングしているのでそのままジャバジャバと水に入れる。みんな体が熱くなっていて、男性は洋服のままかあるいはTシャツを脱いで滝に打たれている人が多かった。水着をきていた女性は1人だけ。他の女性の羨望の視線を集めながら彼女も滝に打たれていた。初日にこんなお楽しみがあるなら水着を着てくるべきだったなぁ。
私はどうしても耐えられなくて、頭だけ水につけて頭を洗った。ふー、気分爽快。
「きれいに澄んだ清らかな水」では全くなく、茶色いやや澄んだ水にはかなりがっかり。山中にきたらもっときれいな水だと思っていたのに、この水質にはややがっかりしたのだった。
滝を過ぎて最後のきつい坂を上りきると今日一番標高の高い場所に到着した。時刻は午後3時45分だった。
鬱蒼と茂る森の向こうにまた青々とした山が連なり、低い場所には田んぼと思われる薄い緑色の平地も見られる。涼しい木陰で休んでいると、頬にあたる風がずっと冷たくなっていることに気付いた。今日1日でかなり登ってきたとはいえ、そんなに標高が高い場所までは上がってきているわけではない。目線の先にはもっと高い山も見えていて、ガイド氏ご自慢の景色ではあるが、やや物足りない。もう少し見渡せる場所だったらよかったのになぁという景色だった。
ここから村までは更に20分ほど歩くが、もうあまり上がることはなかった。景色からいったら、最後に休憩した場所よりももう少し村に近づいた場所にもっと見渡せて景色のよい場所があった。
うっすらと夕刻の気配が空に見え始めていて、空気がだんだんと冷たくなっていくのが心地よかった。
ポツポツと高床式の民家が見え始め、村の中のとある1軒が今日の私たちの宿泊場所だ。こんな高床式の家に宿泊するのは始めて。テレビ番組の「ウルルン旅行滞在記」で見るような場所に自分がいるのが不思議だった。
村に入る直前にガイド氏がこの村で使われている方言で挨拶の仕方を教えてくれていた。私たちは第一村人を見て「こんにちはー!」と声をかけてみたのだが、シラーッと振り返って無言で視線だけを浴びて明るい挨拶の返答は返されなかった。発音が悪かったのか?テレビのウルルン旅行滞在記のようなことには現実はなかなかならないのであーる。
一般の民家よりは大きな建物に案内されて、ここが私たちの宿泊所。部屋の前には広いテラスが張り出されていて、氷につかって冷たく冷やされたジュースやビールが販売されてたちまち売れていった。
私たちもとりあえずコーラ。一缶B30(=US$0.99)と町で飲むよりも割高だが、こんな山中で氷で冷えたコーラが飲めるのはありがたい。一体どうやってここまで氷を運んできたのだろうか(後に私たちが通ってきたのとは反対側に車が走ってこられる道があることを発見したのだった)と感謝しながら飲んだのだった。
午後6時過ぎに食事の用意ができる1時間ほどは自由時間。裏山に上がってみる人もいるし、ゆっくりとテラスで涼んでいる人もいる。
夜の帳が下りてくるのと同時に気温もぐんぐんと下がってあっという間に寒くなっていく。 私たちは完全に夜になる前にシャワーを浴びることにした。水シャワーなので気温が下がりすぎると寒くて入れなくなりそうだったからだ。
シャワー・トイレの小屋は母屋の階段を降りて右手に2ヵ所設けられていた。中は洗面台が1つと水の入った大きなカメが一つと洋式トイレ(便座なし)が一つ。
大きなカメに浮いているヒシャクで水をすくって水を浴びる。皆考える事は同じなようで、この時間帯に2〜3人の待ち行列ができて私も外で待っていたのだが、先に浴びている人が冷たい水を浴びて「ウホー!」と叫んでいる声が聞こえた。水は確かに冷たくて最初は鳥肌が立つくらいだが、慣れればなんとかざっと体が洗えた。
寝室は壁の向こうの夕日が透けて見えるくらい風通しの良い建物で、布団一組につき1つ蚊帳が用意されていた。
壁も床も竹でできている。竹は丸い幹をそのまま使うのではなく筒を開いて板状にして使っているので歩きやすいし、竹のつるつるした感覚が素足に気持ちよかった。
水浴びしてさっぱりして、布団に横になって夕食の準備ができるのを待った。
寝室の隣には母屋への出入り口のあるリビングになっているのだが、その先のキッチンからシャーッと炒め物をするいい音と共に香ばしい匂いが漂ってきた。見に行ってみると、ガイド氏とは別の男性が調理中。床の一角に灰を敷いた部分があり、そこがコンロになっているのだった。もしかして虫とか出てきちゃうのかしら?と期待半分、恐怖半分だったのだが、出てきた料理はタイ風の食べやすいカレーや炒め物で、味も外国人向きにあまり辛くないように作ってあり、今日1日歩いた私たちはモリモリと食べたのだった。
ダイニングは母屋に張り出したテラスにゴザを敷いて、ろうそくの灯りで食べる。ゴザの上で食べるというのは日本人にはどこか懐かしい感じもするのだが、白人達にしてみたらかなり異文化度の高い経験なのだろう。物珍しそうにゴザをなでてみている人もいた。ここでもガイド氏は場を盛り上げる話題を提供して、皆を和ませてくれた。皆お腹いっぱいになった所で夕食が終了。
寒くなってきたので、この後は母屋のリビングに場所を移して地元の子供達の学芸発表会を見物することになった。
この村の就学前児童から小学生といった年齢層の子供達が民族衣装に身を包んでずらりと並び、先生の指示で伴奏に合わせて振り付きで合唱をしてくれる。
曲はタイに民族音楽というよりはキリスト教の日曜学校のような西洋的なメロディーで、言語はタイ語なのだが時々「ハレルヤ」って言っていたような・・・。気のせいだろうか?
先生が「子供達が他の国の言葉を学ぶ良い機会なので、どうぞお国の言葉を教えてあげてください」と言うと、色々な国の人が「こんにちは」とか「あなたの名前は?」などを自国の言葉で教えたりしてコミュニケーション。高学年にはかなり英語が話せる子もいて、こうしたイベントが功を奏していることを物語っていた。日本もこういうのをやったら面白いのにね。
最後に各自チップを支払って演奏会は午後7時半に終了した。
この後は、料理を作ってくれた男性が実はギターも上手なので、リビングの真ん中の囲炉裏に火を焚いて、彼の演奏をBGMにゆったりとした時間を過ごした。ガイド氏は地酒を持ってきていて、皆に少しずつふるまってくれたのだが、これが透明の強いお酒で飲むと五臓六腑にカーッとくるがなかなかおいしい。酒の話題でまたまた場が盛り上がったのだった。
夜9時近く。早いけれどもう寝ようかと寝室で横になっていたら、何やら外が騒がしい。
テラスに出てみると、遠くが赤く燃えていて、何と火事が発生していたのだった。こちらまで届くほど近くはないが、一軒がまるまる燃えているようで、かなり大きな火になっている。
しばらく見ていたのだが、人々が火事現場に向かっているようなので私たちも行ってみることにした。
現場は宿から徒歩10分くらいの場所で、そこも私たちと同じく外国人観光客相手のツアー宿をやっている所だった。そこに今夜宿泊していたという白人男性がいて話を聞くことができた。彼ははだしだった。
寝室で寝ていたら、突然キッチンから火の手があがり、宿泊していた8人ほどの外国人はとりあえず手に持てる荷物を持って母屋を飛び出したのだそうだ。誰一人怪我も火傷も負うことなく逃げることができたのだそうだが、語ってくれた白人は母屋に履物一切とカメラとビデオの入ったリュックを置いてきてしまって、それらは全滅だろうと言っていた。
何と!そんなこともあるのか!
こんな山中ゆえに消防車がくる気配もない。それにもかかわらず周囲の村人は燃えていく家を見守っているだけで消火活動もしようとしないのが私たちには不思議だった。
ただ一人、この家の主人なのだろうか、半狂乱になって火を消そうと水を汲んでは振りかけている男性がいたのだが、この大きな火に対して何の効果もなく、彼はがっくりと膝を落として火を見つめていた。
宿に戻ってみると、家の宿のお母さんが伝統の楽器(日本の笙に似ている)を吹いていた。
えーーー?
日本で近所の家が火事の時に笛を吹くってのは不謹慎というか、普通やらないでしょう。この感覚が非常に異文化だった。
他人の家の不幸は他人の事だから自分とは関係ない。
日本の場合は村社会的というか共同体の意識がとても強いので、こうした同じ村で不幸があったら本音はともかく表面上は一緒に喪に服す気持ちを表現するのが一般的だと思うのだが、ここではこんなに小さな村の中でも各自が自立しているというか、とてもドライな関係になっているらしい。火事現場で主人以外は誰も消火活動を手伝おうとしていなかったのもそうだ。助け合うということがあまりないのか、それとも状況を見切って「仕方ないものは仕方ない」という諦念が強いのか。
そういえば、この村に入ってきた時に挨拶をしても誰も返してくれる人がいなかったなぁ。村の人のキャラクターはかなりドライなのかもしれない。
この村に来て、高床式の家も子供達の合唱も異文化ではあるが、ややツーリスティックでフレンドリーに過ぎる。この近所の火事に対する人々の反応が一番むき出しの異文化体験として強く印象に残った。
そうそう、夜はかなり気温が低くなった上に、この晩は風もヒューヒューと壁から抜けて入り込んでいた。私たちは5度まで対応の寝袋で温かく眠ることができたが、寝袋を持ってきていなかった人は3枚くらい布団をかけてもまだ寒いと言っていて、1人は翌日体調を崩してしまっていた。寝袋は借りてでも持っていった方がいいだろう。
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