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2006.02.19
移民という事に触れたサン・パウロ |
ブラジル:サン・パウロ |
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サン・パウロに来て2日目からリベルダージの東洋人街にあるホテル池田に宿泊している。今でこそ、韓国人や中国人が増えて「東洋人街」と呼ばれているが、リベルダージ周辺はかつて日本人が多く住むために「日本人街」と呼ばれていたそうだ。東洋人街と名前は変わっても、2004年編集のガイドブックに、世界で一番規模の大きな日本人街と書かれているように、2005年の初めに訪れたロサンゼルスの日本人街よりも規模が大きいと思う。
地下鉄でリベルダージの駅に降りると、普通に日本人がいて、日本語が聞こえてきて、日系のお店が並んでいる。カフェに入ると、2人の日本人男性が「最近、どうですか?」「いやー、忙しいですねぇ」なんて会話をしていて、まるで日本そのもの。日本を離れて1年になる我々にとっては、この久しぶりのような、それでいてどこか違うような光景は、殊更不思議に感じられた。
宿泊している宿のオーナーの池田さんは、最近御主人が他界されて奥さんが切り盛りしている宿なのだが、ロビーで寛いでいると、移民した頃の話をとつとつと話してくれる夜がある。奥さんは両親と共に子供の頃、ブラジルにやってきたそうだ。第二次世界大戦が始まって、日本人学校が閉鎖され、日本語の教育が受けられなくなるなどという話を体験した本人から聞くのは初めてのことだった。それでも家庭で親が日本語を教えたりして、何とか日本語を学ばせようとしていたのだが、それも見つかって禁止されたりして、なかなか日本語に触れる機会がなくなってしまったそうだ。それから戦争も終わり、平和な世の中になったものの、自分の結婚や出産、子育てなどが忙しくて、読み書きの勉強をする暇がなかったと語っていた。自分の母国語を禁止される事に対して、どんなに憤りや、悔しさなどがあっただろう。しかし池田さんは、そんなことは全て飲み込んでか、とても穏やかに当時の話をしてくれた。それにしても、池田さんの日本語はとても美しい。使う言葉や話し方が、小津安二郎の映画に出てくる女優さんのようでとても品がある。何十年も前の美しい日本語が、何の影響も受けずに日本の反対側にそっくりと生きているということが驚きでもあった。
宿泊客の中には、戦後単身で移民してきた加部さんという男性もいて、こちらからも色々とお話を聞いた。加部さんの話は、戦後の打ちひしがれた日本の中で、アイデンティティーと尊厳を求めて日本を飛び出した青年期から始まってコーヒー農園で成功して現代に至るまで、まるで物語にでもなりそうなエピソードに満ちている。
東洋人街の一角には、ブラジル日本移民資料館がある。訪ねてみると、立派な建物の最上階から3階分を使った資料館で、写真と解説の展示の他に、当時の様子を伝える再現ビデオも数ヶ所用意されている。中でも印象に残ったのは、「夢のような話を聞いて来てみたけれど、毎日毎日が過酷な労働で、ここでは将来の計画を立てるのでなく、今日一日を無事に過すことだけを考えるのが処世術なのである」というナレーションだった。そんな状況から、資金を貯めて土地を買い、研究を重ねて農業を拡大し、組合を作ってきたのだそうだ。資料館の最上階には関連書籍のショップもあり、2005年にNHKで放映された橋田寿賀子原作・脚本の「ハルとナツ〜届かなかった手紙」も販売されていた。
「ハルとナツ〜届かなかった手紙」は、戦前移民した家族の長女ハルと移民直前に目の病気が見つかって一人家族から置いていかれた次女ナツの物語である。NHKが受信できる日本人宿にいた時に一部見ていたが、ここサン・パウロに至って、是非全編を見てみたくなり、早速くDVDを購入して、その晩のうちに6時間にも及ぶ全編を見てしまった。
この作品を初めて見たのは、ペルーのクスコのペンシオン八幡という日本人宿のテレビでだった。あの時は、宿の主人が長期旅行の末にクスコに宿を開いて、現在2軒目としてホテルを建設中だという話も聞いたが、いわゆる「移民」とは少し違う気がして、実際のできごととして「移民」の歴史を感じることができなかった。しかしブラジルにいてこの作品を見ると、聞いたことのある地名も出てくるし、池田さんや加部さんの顔も浮かんできて、非常にリアリティーを持って感じられた。
そして今日19日、物語にもでてきた移民博物館に行ってきた。今は博物館になっているが、1978年までは100年近くに及んで、各国からやってきた移民が、一時収容されていた施設だったそうだ。地下鉄のBrasという駅で下車して徒歩5分ほどの所にあった。
当時の施設内の写真や渡ってきた船の中の様子などの展示があり、移民1世のおばあちゃんが2世、3世を引き連れて館内を周りながら、孫にリアルな説明を施している姿などが見られた。人気があるのは、端末で当時ここを利用した人の名前を検索できるコンピュータのある部屋。おじいちゃんやおばあちゃんの名前を見ようとしているのか、若い人が熱心にコンピュータのキーをたたいていた。
やがて、昔風の駅員の姿をした人が大きな声で呼びかけながら館内を回っていた。なんだ、なんだと人の列についていってみると、機関車の発車の時間らしい。ここでは、サントス港に到着した移民を運ぶ移民列車が毎週日曜日だけ走ることになっているのだ。
我々もチケットを買って乗ってみた。一等、二等、三等の席があり、一等はクッションのついた座席で、なかなかクラシカルないい雰囲気だった。
乗り込んでいる他の乗客にあまり外国人がいないせいか、車両の真ん中に立って解説してくれる駅員さんはポルトガル語オンリーだった。「ハルとナツ」の作品に出てきたが、一家がサントス港からこの列車に乗っていると、駅員が来てお父さんに何かをポルトガル語で話しかける場面がある。当然何をいわれているのかわからず、一家に緊張が走るが、お父さんが検札だろうと見当をつけて切符を見せて、駅員がチェックして去っていくというシーンだった。今、周り中が日本人以外の外国人で自分が全くポルトガル語がわからないという状況から、あのシーンのお父さんの緊張がリアルに感じられた。いやー、本当に大変だったろうなぁ。
機関車は解説しながら数キロ進んで、今度はバックして戻るというもので、とにかくこの車両に乗って解説を聞くというのが主眼のイベント。
移民博物館でもう一つ楽しみにしていたのは、当時の衣装で写真を撮るサービス。おお、やってみよう、やってみよう。貸衣装を選んで、装飾品を付けてもらって、さっき乗った機関車の前で撮影してくれる。撮った写真はセピア色に加工して、後でホテルに郵送してくれるそうだ。1週間くらいかかるということだったので、これを書いている今はサン・パウロを出てしまっているので、まだ見ていない。サン・パウロに戻ったら初めて見られる予定だ。
衣装を身に着けると、ますます「ハルとナツ」が身近に感じられた。あの作品は美人女優が出ているので、こうした洋装も似合っていたが、私が着ると、こんな似合わぬ衣装を着てわけのわからない言葉を聞いて、さぞや不安だったろうと、当時の日本人の気持ちがリアルにわかってくるなぁ。って、勝手すぎる想像をしていた。
こうして移民博物館での行事も終えて、宿に戻ってきた。
南米に入ってきてから徐々に移民という事に触れていたが、今までは個人から話を聞く場合が多かった。サン・パウロでは、個人の話だけでなく、リベルダージという町全体が日本人の移民の歴史を見せてくれるし、資料館や博物館でもたっぷりと触れることができた。これがサン・パウロを訪れる肝といってもいい。
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