夫婦2人で世界一周の旅に出発!現地から海外長期滞在の旅の様子をお伝えします。
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2007.01.23
黒砂漠、白砂漠、そしてニュー白砂漠。

エジプト:バハレイヤ

 カイロからバハレイヤに向かうバスが立ち寄った休憩所で作戦会議を行った私たち6人だったが、バハレイヤ・オアシスに到着するや否やバハレイヤの強引な客引きにバラバラに取り囲まれて、荒波に投げ出された蟻さんみたいな心境になった。

 すると仁淑(インシュン)さんが、「ちょっと待ったー。私はこの人に連絡を取りたいのよ」と韓国人の名前を書いた紙を差し出すと、紙を見もせずに一人の少年が「韓国人の奥さんの所だね。それ、僕が案内するから、僕についておいでよ」と名乗り出た。

 仁淑(インシュン)さんは「あんたがそこから来たかどうか、どうやって信じればいいのよ」と言うと、今から携帯で電話するという。少年の携帯に入っている番号と仁淑(インシュン)さんの持っている番号を照合すると同じだったし、かけた先に出た女性は完璧なネイディブ韓国語を話す人だったので、これはもう疑う余地がなかった。

 バハレイヤのエージェント探しで困るのは、どのエージェントもその場で値段を言わずに、とりあえずオフィスに行って話をしようということだった。オフィスに行って話をしているうちに時間が迫ってきて、他のエージェントに行く時間をなくさせようという作戦らしかった。韓国人の奥さんの所とて同じことだった。日本人がよく利用するエージェントも来ていたのだが、とりあえず韓国のエージェントに先に行って、気に入らなかったら戻ってくるからと約束して別れた。

 韓国人の奥さんの名前はYoung Sunさん。旦那さんのモハメッドMohamedさんが車で迎えに来てくれた時、他のエジプト人と激しい言い合いになった。客をがっさりと連れて行くモハメッドさんに対して嫌がらせを言ってきたのだそうだ。小さい村なのに、いや小さい村だけに、客である私たちにお構いなしに、内部の闘争が露出されるのだった。

 家はメインロードから住宅地に入って5分ほどの石塀に囲まれた所だった。

 どうぞ、どうぞと招かれて中に入ると、そこにはすでに今日のツアー参加を決めていた4人がいた。

 ツアーの内容を聞いてみると、事前に調査してきた「バハレイヤから行く砂漠ツアーに含まれるべき観光スポット」がほぼ含まれていた。ビュー・ポイントっていうのが、メモしてきた私たちにも不明だったし、エージェントの人もビューポイントはたくさん巡るからねぇと言われて、これだけは確定できなかったものの、その他は全て訪れるということだった。

 ・Sand Hill(砂丘)
 ・Black Desert(黒砂漠)
 ・Crystal Mountain(クリスタル・マウンテン)
 ・Bedoin Villate(ベドウィン村)
 ・View Point(ビュー・ポイント)
 ・Akkbat(アクバット)
 ・Flower Stone(フラワー・ストーン)
 ・White Desert(白砂漠)
 ・New Desert(ニュー白砂漠)

 これから、この家で昼食を出してもらい、午後からツアーに出発。見所を周って、夕日を見て、砂漠で夕食を食べて一泊して、朝食を食べて翌日も見所を回って午前中に村に戻ってくる。これがツアーに含まれる内容だった。砂漠では寒くないように十分なブランケットを用意してくれることも約束した。

 最後に値段の交渉。私たちが聞いてきた話では8人乗りの車を使って、1台についてEGP600(=US$102.39、2007年1月22日の換算レートUS$1=EGP5.86を使用)なので、6人で利用した場合は一人EGP100(=US$17.06)になる予定だった。最初は5人で参加するはずだったので、声をかけた3人にはEGP120までは許容の範囲だと了解をもらっていた。

 しかし、ヨンさんが提示してきた値段は一人EGP150だった。EGP30(=US$5.12)アップになってしまう。これじゃぁ、声をかけた3人に申し訳ない。EGP150じゃぁちょっと容認できませんねぇと言ったら、ここのツアーは4人お客さんを乗せた4WDでのツアーを想定しているのだが、もし日本人とスーフォンちゃんの5人で1台に乗るのなら、そのメンバーはEGP140(=US$23.89)にしましょうと言ってきた。値段は下げてきたものの、実際には一人多く乗せるわけだから他の人からクレームはこない。さすが、先進国から来た嫁だ。ここで私たちだけに値段を安くしたら、あっという間に他の人から値下げを強要されて値崩れを起こしてしまうに違いない。

 私は他のエージェントでは8人乗りの車を利用するために、もっと値段が下がるのだが、4人乗りの4WDを利用する特典は何だろうかと聞いてみた。

 すると、8人乗りの場合は前向きに4人、後ろ向きに4人の向かい合わせで座るため、砂丘のアップダウンの激しい所に行くことができない上、アップダウンのある所を乗り続けていると、後ろ向きの人はかなり気分が悪くなるのだと答えた。家の車ならばかなりの急斜面を下ったりするのでより楽しい砂漠ツアーになる。とヨンさんは自信たっぷりに答えた。

 これは、後から日本人で8人乗りの車でツアーを行った人に聞いたら、本当にそうだった。安さばかりを追求してしまうと、楽しさを逃すことにもなりかねない。

 ヨンさんはなかなかしっかりとしていて、嫁に来て、子供も作って、ここで一生やっていくんだという胆の座った女性だった。だから、値段も下げないかわりに質も落とさない。そんな彼女の熱意が伝わってくるのだった。

 インシュンさんは既にこのツアーでいいと思っているらしく、私に「この値段でどうだろうか」と聞いてくる。気がついたら、圭介君も洋一君もスーフォンちゃんも私を見つめて、今や私さえオッケーすれば話は決まるンだがという空気になっていた。いやいや、私は皆に言っていた値段より上がってしまったのでもう少し頑張ろうと思っていただけなので、皆がオッケーならばそれでよかった。ということで、話は決定。

 それでは、お昼ご飯にしましょうと次々とエジプト家庭料理が運ばれてきた。素朴な料理ながら清潔感が漂い、しかもどれもおいしかった。

 昼食が終了すると午後2時になっていた。広い裏庭には一面に棗が干されていて、デザートがわりに好きなだけ取って食べていいですよと言われた。

 トルコからずっと干し棗を食べて来たが、場所によって味も形も異なるのが面白い。日本で一番近い食べ物といったら干し柿になるだろう。ほのかに甘くて、おいしいんだよね、これ。みんな遠慮なくバクバクと食べて、開放的なデザートタイムを楽しんだ。

 そろそろ出発しないのかなー?と思っていたら、またまた別の韓国人の団体がどさどさとやってきて、昼食を摂り始めている。見る間に韓国人と日本人4人で合計18人の大団体になってしまった。

 出発はまだまだかかりそうなので、近所の子供と写真を撮ってみたり、ヤギの親子に会ったりして、バハレイヤの田舎の生活を見学した。

 女の子は3人姉妹の末っ子で、物怖じしない様子がとても可愛い。洋一君に「可愛いねぇ」と言うと、「いやー、僕、ボールペンが欲しいって言われて、何だかよくわからないままにあげちゃいましたよ。何言われてもいうこと聞いちゃいそうですねぇ」と言っていた。恐るべきパワーだ。将来やり手のツアーコンダクターになっているかもしれない。


洋一君、私、圭介君。さぁ、楽しいツアーに出発だ!イェーイ!
 午後3時になってやっと車への荷物の積み込みが始まった。トヨタのランドクルーザーは全部で4台。思わぬ大部隊になって、賑やかで楽しいツアーになりそうだ。インシュンさんは小さな子供のいる親子4人の車に乗り、私たち5人で1台。あとは4人組の韓国人チームが2台に分乗することになった。

 ツアーに参加する人は一旦パスポートを警察に提出してチェックを受けなければならない。昼食が始まる前に提出しておいたのだが、ツアーを出発して警察署で受け取るまで、また少し時間がかかった。私たちの車のドライバーはご主人のモハメッドさんなのだが、「警察は必ず賄賂を要求してくるので、それをどうやって支払わないようにするか、毎回大変なんです」と話していた。裏でなかなか苦労があるようだ。

 というわけで村を出る頃に3時半を超えてしまった。最初の見所は黒砂漠だそうだ。急げ、急げ。15分も走るとメインロードの両側は、早くも黒い地肌の黒砂漠地帯になってきた。村から結構近い所にあるのだった。

 やがてリーダーのモハメッドさんのランクル(ランドクルーザー)が、ザザザーっとメインロードをはずれて砂漠に入ると、後続の車も次々と砂漠の中に入っていった。

 午後3時55分、黒い山の前で撮影タイム。「黒砂漠って何だ?」と思っていたのだが、つまり大昔に起きた噴火の黒い火山石があたり一面を覆ってそのまま残っている場所のことだった。

 近寄ると単に黒く見えていた物体がつぶさに見える。意外に大きな石もあり、噴火の威力を物語っていた。


 10分後、再び車に乗ってしばらく砂漠の中での運転を楽しむ。

 荒々しい人の手の入らない自然の景色の中のドライブは、いつも心がワクワクする。ボリビアのウユニ塩湖、ヨルダンのワディ・ラムの砂漠。回数を増すごとに、前回のランクルの旅の思い出が重なり、あの時はこうだった、ああだったとかしましくなるフロント席の夫婦だった。

 幹線の舗装道路に戻って走り続けた。午後5時を過ぎる頃には、今度は茶色い砂に混じって白い石がちらほらと見えるようになってきた。そろそろ白砂漠の雰囲気が出始めてきたらしい。

 向かう先はアクバットAkkbatという岩山。小高い場所なので、ここからの眺めが素晴らしいのだそうだ。

 アクバット到着が午後5時27分。本当は白砂漠で夕焼けを向かえる予定だったのだが、今日は予定が押してしまったのでアクバットで夕日を見ることにしようとモハメッドさんが説明した。

 白い巨石に夕日が染まって真っ赤に見える白砂漠での夕日見学もきっと良かったろうとは思うが、アクバットからの夕日も負けてはいなかった。

 斜面にぶつかる低い太陽の茜色が何もかもを赤く赤く染めたおして、圧倒的な力で地上を覆いつくしている。アクバットの目の前は急斜面で下って、その先の平野のずっと先に山があるので太陽はその山に隠れたら夕日見学はおしまいである。だから本当の意味で日が沈んだわけではないのだが、アクバットからの夕日見学は午後5時半にピークを迎えた。




 気づくとスタッフは靴を脱ぎ、太陽に背を向けてメッカの方向に向かって祈りを捧げていた。こんな風景は、幻想の中のエジプトによく似合う。

 午後5時35分。「それでは参りましょう」と車に乗り込んだモハメッドさんは、私たちを見て、それから後部座席をみて、ニヤリと笑った。

 と、次の瞬間、目の前に見えていた急斜面に向かって突っ込んで行くではないか。やったー、ランクルでの砂丘下りだ。真っ逆さまに落ちていくようなジェットコースターに乗っているような気分。おおおおーーー、どひゃーーーーっ、あっはっはっはー、車内は大興奮の渦で満たされた。ランクルの本領発揮である。皆、心の底でこれを待っていたらしかった。

 15分も走ると白い部分が多くなり、本格的に白砂漠の領域に入って来たとモハメッドさんが告げた。午後5時48分。白砂漠の大きな岩が林立する場所で停車。


 面白い形のキノコ岩が、あっちにもこっちにもたくさんある場所で、皆、思い思いの場所で写真を取りまくり、好みの岩を探して走り回った。

 上の写真で、親亀の背中に小亀が乗っているように見えている、小亀の岩も、近づくとこんなに大きい。

 キノコ的な岩というのは、トルコのカッパドキアや様々な海辺で生成されて、各地の観光スポットになっている。水あるいは風の侵食によってこのような形になるってのは、まぁよくある話だ。

 しかし、茶色の砂地の上に、こんなに真っ白な造形物がある場所ってのは今までに見たことがない。やっぱり、ここは特別な場所だった。

 午後6時、辺りは本当に暗くなり始めてきた。「本日最後の見所に寄ったら、あとはキャンプ地に向かいます」とモハメッドさんが説明してくれた。

 「最後の見所は夕食の材料ですよー」というモハメッドさんは、岩を指して「ほら、ブロッコリーと鶏の岩です」と叫んだ。う、何てメルヘンな。可愛い、けど巨大な岩が目の前に立ちはだかっていた。


 ロマンチックな洋一君が、「あ、晶子さん、ブレーメン音楽隊ができそうでうね」と誘ってくれたので、二人で鶏の上に乗っかってブレーメン音楽隊になってみた。

 岩は割りと高さがあって登るのは洋一君の助けがないと難しかった。鶏にまたがって戻ってみると、パンツは真っ白。ここの岩はチョークのように細かい粉末になって衣類につくのだった。やれやれ、メルヘンも楽ではない。


雪ではなく砂漠の砂が舞っているのだ。
 白砂漠から10分走るとニュー白砂漠と呼ばれる場所で、今夜のキャンプ地がある所だ。午後6時半、到着と同時に野営の設営が始まった。18人もいる私たちは、お客さんなので何一つ手伝わなくてよい。

 ランクル4台をコの字に駐車して、綱を渡してエジプト伝統のテント布を垂らしていく。このテント布の模様は、カイロのハンハリーリに近いムイッズ通りのズェーラ門の付近でみかけた模様だ。伝統っていうのは生きているんですねぇ。

 午後7時、テントの設営を終えたスタッフが、今度は食事の準備を始めた。

 焚き火が赤々と燃えているし、車のバッテリーを使ってライトも付けているので、そんなに暗い感じがしない。

 日が落ちた後の砂漠は急速に温度が下がり、どんどんと寒くなっていった。日中は半そでのTシャツにウィンドブレーカーで大丈夫だったが、この時間になると半そでTシャツにセーターにウィンドブレーカーに更に冬用のロングコートを着込み、ニットキャップを被って丁度いいくらいの気温になってきた。

 食事ができるまでの間、買ってきたビールを飲んだりおしゃべりしたり、各々寛いで過ごした。そうそう、ビールは出発前に注文を取ってくれて途中で酒屋に寄って買ってきたのだった。実はモハメッドさんのお父さんは、お客さんとはいえビールを飲むのはけしからんと考える厳格なイスラム教徒の方なのだが、ヨンさんとモハメッドさんの若夫婦は、そこん所は柔軟にお父さんに内緒でこういうサービスもしているのだった。

 昼間、お父さんの干し棗を食べながらおしゃべりしていたら、ヨンさんがインシュンさんに向かって小声で韓国語でビールの注文を取りに来たのだった。インシュンさんは私に小声で英語で「ビールは何本飲みますか?」と聞いてきたのだが、お父さんと若夫婦の事情を知らない私が、「え?ビール?」と普通の音量で聞き返したので、ヨンさんとインシュンさんが一瞬固まってしまうという小さなハプニングがあった。お父さんは何も聞こえなかった振りをして、今まで通りに会話を続けていたが、後でヨンさんは「後で、お父さんにしかられてしまうかもしれません」と言っていて申し訳ないことをした。

 宗教の違う所に嫁に来て、その中でどうやって利潤を高めようかと一生懸命に考えているヨンさんは、相当気を使って暮らしているのだろうと思われた。こういう昔からの風習を打ち破るアイディアを持った人が村に入るというのは、革新的である一方で従来のやり方に反するという声も高いことだろう。しかし、この盛況ぶりを見る限り、彼女のやり方が正しいということは誰もが納得せざるをえないだろう。

 さて午後9時近くになってようやく夕食の準備が完了した。なんたって18人分の準備だから、テントの設営も荷物の運び降ろしも、食事の準備もそれだけ時間がかかるのだ。

 お腹がぺっこぺこの18人は食卓に着くや否や、もうそれは全員が気持ちのいい食欲でむっしゃむっしゃと食べ始めた。(食事の詳細は「本日の献立2007年1月23日夜」の写真クリックで見ることができます)

 満腹になってまったりとした気分が漂ってきた頃、今度は焚き火の周りに絨毯とクッションがしかれて、皆で車座になってスタッフの奏でる音楽を楽しむことになった。

太鼓と手拍子と歌声の素朴な音楽は、それでもやはりどことなくアラビアンな旋律。

 音楽に合わせて出てきた踊りも、少し腰を落としてセクシーに腰を回すベリーダンス系の踊りだった。

 打楽器の軽妙なリズムを聞いていると体がムズムズとしてきて、私は立ち上がって踊りだしてしまった。さぁ、皆も!と思って見回したのだが、韓国の人は案外シャイで誰も立ち上がろうとはしない。

 みんな闊達におしゃべりもするし、外国人の私たちにも物怖じせずに色々な質問をぶつけてきた先ほどの夕食時から見たら、別人格のように楽しんではいるが誰も踊りだそうとはしないのだった。ふーん、韓国の人の意外な一面だった。

 しかし、そのうちにジャンベもたたくという圭介君が立ち上がり、洋一君も立ち上がり踊り始めると、韓国の若い女性達がスタッフに勧められて立ち上がり、そんなこんなで皆で踊りだし始めた。

 着込んだ体は踊っているうちに温まってきて、夜風がとても気持ちいい。

 午後11時、音楽の演奏も終わりスタッフは寝床の準備に取り掛かった。光のない所で夜空を見上げると、満天の星。夜空は確実に手に届く予感がした。これも砂漠の大きな楽しみの一つだ。

 夜の空を眺めていたら、「はいー、それでは就寝でーす。皆、ここに一列に寝てくださーい」と言われた。先ほどのテントの前にマットレスが敷かれている。その上に皆川の字になって寝るように指示された。皆がすっかり川の字になると、その上からどんどんと毛布を積み重ねられた。韓国人は3枚、日本人は寒さに弱いので5枚。「絶対に寒くならないようにブランケットをたくさんお願いします」と注文をつけたのは私だった。

 私の願い通り、野営にもかかわらず満天の星を見ながら寒い思いをすることなく眠ることができた。さぁ、明日はどんな冒険が待っているだろう。


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