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クスコ(Cusco)→プーノ(Puno)
2005.10.22 |
ペルー国内移動 |
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移動内容 |
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06:45-06:54 |
宿からタクシーの拾える道路まで徒歩で移動。 |
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07:00-07:10
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プーノ行きの列車が出るワンチャック駅までタクシーで移動
タクシー運賃 S5(=US$1.48) by 現金 |
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08:15-18:07
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クスコからプーノまで列車で移動
列車運賃 US$16/人 by 現金。 |
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18:25-18:31
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プーノ駅から宿までシクロで移動。
シクロ運賃 S2(=US$0.59) by 現金。 |
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※2005.10現在、US$1= S3.37(ペルーソル)で計算しています。 |
クスコからプーノまでは、バスか列車という選択肢がある。価格の安い方から、ローカルバス(US$6〜7、ガイドブックの情報なのでもっと値上がりしている可能性あり)、列車のバックパッカー(US$16)、ファーストクラスバス(US$35、ガイドブックの情報なのでもっと値上がりしている可能性あり)、列車のファーストクラス(US$119)。道路と線路はほぼ並行して走っている。
列車のファーストクラスは、値段が高すぎて論外。ローカルバスは、そもそも乗るつもりはないが、途中で故障したという話を聞いてますます論外。従って、列車のバックパッカークラスか観光バスかという選択になった。観光バスは、数ヶ所の見所でストップして、英語の解説がついて昼食も付くとあった。しかし、私達は自由に動き回れる列車の方が体が楽だろうと判断して、列車で行くことにした。
人が集まらないと運休にもなる、とガイドブックに書かれていたが、宿のご主人に聞くと、それはシーズンオフの話で、しかも滅多に聞かないと言われたので、3日前の水曜日に駅に行って、22日土曜日のチケットを購入しておいた。宿の皆に聞いたら土曜日に出発する人が、この宿だけでも我々を含めて6名いることがわかった。まぁ、問題ないだろう。それにしても、6名で団体行動なんて初めてかもしれないなぁ。
進行方向から振り返って宿を見たところ。
このわずかな上り坂が、きつい。 |
出発当日の朝、7時半に駅に来てくれと言われていた。駅までタクシーで10分くらい。しかし、我々は荷物が多いので、他の人より一足先に6時45分に宿を出た。今いる宿は高台にあり、宿の前の道路には車が入れない。車が拾える所までは、坂を少し上がり、階段をずっと下がらないといけない。これが今回の移動で一番大変だった。2人で1つのスーツケースを持ち上げて、5〜10段ごとにある踊り場まで運び、また階段を上がって2つめのスーツケースを運ぶ。結局、階段を2往復したことになる。10分ほどの移動だったが、高地のため息があがって、はぁはぁしてしまった。それでも、かなり高地慣れしているので、頭痛が起こるほどではなかった。
宿からまっすぐと来て、写真右手の階段を下りる。
もうここまでで、へたっている私。 |
階段は果てしなく見える。
それにしてもレンガ色の瓦が美しい。 |
朝の通勤、通学中の皆様が、
「何やってんだ?」って顔で通り過ぎていく。 |
下に到着。よく頑張りました。
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この辺りのタクシーはDewooの軽自動車が多い。「乗っていけよ」と誘いをかけてくる軽自動車に、スーツケースを指差して肩をすくめ、断り続けた。ほどなく、ハッチバック型のタクシーが来たのでお願いした。軽自動車で荷物が少ないとS2、荷物が多いとS3と聞いていたが、このタクシーにはS5と言われた。ま、しょーがないね。
駅に到着して、タクシー運転手と記念撮影、そして運賃の支払いをしている間にも、オレンジ色の作業服を着た係員がさっさと荷物を運んでいく。我々の荷物を一度に持っていけるなんて、相当の力持ちだ。
しかし、本当はこんな運び方はして欲しくなかった。重いので、持ち手に負担がかかりすぎて、その部分の布地が伸びちゃうからだ。どんどん持っていっちゃうから、注意する暇もなかった。
彼らのやる気の理由はもちろんチップ。でも、あんな持ち方されちゃったから、ちょっと渋くS1。白人はUS$1札を渡しているようだったので、私達の3倍以上渡していることになる。
駅舎に入ると右手がカフェになっている。年配の白人たちはファーストクラスの乗客だろう。南米旅行者というと、バックパッカーばかりが目に入っていたので、こうして普通の恰好で旅行している人たちを見るのは新鮮な気がした。彼らはおそらくパッケージ旅行だろうから、ファーストクラスとバックパッカークラスが7倍も値段が違うとは知らないだろう。
列車は、ファーストクラス車輌が大半で、食堂車をはさんで一番前の1車輌だけがバックパッカー車輌となっている。同じ機関車につながれている列車で7倍の差を出そうと思ったら、ジャグジー付きでマッサージサービスくらいしてもらわないと割に合わない、と私なら思うのだが。
正面には、ホームに出る扉が開いていて、フロックコートの駅員が待機していた。ホームを覗いてみると、各車輌ごとにやはり厚手のコートを着た女性達が入り口に整然と待機していて、高級列車の雰囲気を醸し出している。
やがてバックパッカー列車に乗り込みそうな人たちも集まりだし、列車への乗り込みが開始された。ファーストクラスの内装や調度品はカッコイイ。高級ホテルみたいだった。
バックパッカーも一応テーブルを挟んで向かい合わせの席の形式だ。シートやテーブルがチープだが、機能に遜色はない。
向かいに座ったのはドイツ人とキルギスタン人の女性達。これから10時間宜しくね!と挨拶しあって旅が始まった。(彼女達については、People旅先で出会った人参照)
しばらくはウルバンバ川と並行して走る。川は線路の右側になったり左側になったりながら進むが、左手は峰がすぐにそびえるのに対し、右手は広い農地や牧場が広がり、その向こうに峰がそびえていた。どちらの窓を見ても、絵になる風景が山盛りで見飽きることがなかった。
乗車して3時間、だんだんクッキーのパッケージが膨らんできた。高度が上がっているのだ。クスコの高度は標高3400mだが、この列車は4319mのラ・ラヤという駅に向かって高度を上げている。ラ・ラヤからは高度が下がって、目的地のプーノは3855mとなる。日本で考えていた時は、4000mを超える所に行くと、どーなっちゃうか?と心配だったが、クスコで10日も過ごした今は、平気だろうとかなり気楽に考えられた。
突然、車内に甲高い女性の歌声が響いた。驚いて振り返ると民族衣装に身を包んだ若い女性2人と年配の男性1人の楽団が見えた。中国の奥地の山岳民族が求愛に歌うという歌声ににて、裏声で甲高い声で歌う歌は、物悲しいメロディーなのに晴れやかな雰囲気がする不思議な音楽だった。男性が「ようこそ、高原列車へ。私と2人の娘の音楽をしばしお楽しみください」とアナウンスすると、2人の娘はそれぞれ客席から男性をひっぱり出し、伝統的な帽子をかぶせ、音楽に合わせて踊りだした。我々日本人代表として、同じ宿の男性もひっぱり出され、恥ずかしがりながらも踊りだした。彼は後日、この時被らされたのと似た黄色い織物の帽子を買っていた。無意識のうちによっぽど気に入ったんじゃないですか?と冷かすと、あれれ、そうかもしれませんね、と頭をかいていた。
楽団が演奏を終えて戻っていく中、娘の1人が日本人の持っていた「地球の歩き方」の巻頭のページを開き、「パードレ」と言った。見ると高原列車に写っている写真の男性は、先ほど演奏していたお父さんだった。わーい、有名人を見ちゃったぁとはしゃぐ日本人であった。
この辺りから、黄色の原っぱがひろがり、リャマが放牧されている風景が多くなってきた。やがて、小さな村をいくつか超えて高度をあげると、黄色い草もなくなり、山肌には薄く緑の草が映え、高くなると何も生えていないような真っ黒に見える山の後ろに、濃く青い空と真っ白な雲を背景に万年雪をたたえた高山がそびえている風景となった。
こんな風景が見えて12時42分、この路線最高所、標高4319mのラ・ラヤ駅に停車した。
ファーストクラスでは車内でフルコースのお食事が出る。バックパッカークラスでは、US$10でフルコースのお食事の他、US$7くらいでボリュームのあるサンドイッチやお茶も注文できる。そして、もう一つの選択肢としては、このラ・ラヤ駅の売店で買うエンパナーダだと、宿の主人に言われていた。
夫が早速エンパナーダを買ってきた。他の日本人の中には、売り切れてカステラのようなスポンジケーキしか買えなかった人もいるので、食べたい人は停車後すぐに買いにいった方がいいようだ。ほのかに温かいエンパナーダは、この列車の到着に合わせて作られたようで、素朴なおいしさがあった(詳しくは本日の献立22日昼を参照)。食べ物の他にも、お土産物を売る露店があったり、民族衣装を着てリャマを連れた女性が有料撮影を待っていたりして、それなりに賑やかな風景だったらしい(私は荷物番をしていたので、見ていないが)。
10分強の短い停車で、買い物を済ませ、外の空気を吸ってリフレッシュ。列車は再び走り始めた。プーノからクスコに向かう列車とすれ違った。やはり先頭がバックパッカークラスで、後ろの方がファーストクラスだった。ファーストクラスの最後尾車輌は展望車輌になっていて、窓に向いたソファーが設置され、最後尾には展望デッキもあった。これはポイントが高い。デッキには年配の白人ばかりがいた。私達も70代になったら乗ってもいいかもしれない。
と、我々の列車の横を猛スピードで土産物を抱えたおばちゃんが走っていく。標高4319mというのに。もう列車は走り始めているのだから追いつくまいと、おばちゃんを抜かして行く時に思いっきりニコヤカに笑って手を振った。すると、列車は減速し停車するではないか。何だ、この間は?おばちゃんは知っていたのだ。勝ち誇った笑顔を浮かべて、私達の窓の下に来て「さっき、手を振っていたでしょ、これが欲しいんでしょ?」と言わんばかりに、アルパカの毛で作ったアルパカ人形を差し出してきた。あーあ、やられた。でも、申し訳ないがお断りした。おばちゃんはそんなことには慣れっこなのか、すぐに次の車輌に行った。どこに行っても、商売熱心な女性がいるものだ。
その後、途中何度か汽笛が鳴って、列車が減速する時があった。大抵、牛やらリャマやらが線路を横断していて、汽笛に驚いて大急ぎで逃げる大群が横を走っていった。
黄色の原っぱの風景は、やがて薄く水がはった川と緑の草原、そしてミニグランドキャニオンのように断層がくっきりと見えるような風景に変っていった。高度が下がって草が生えているのと、湖が近くなって湿地のようになっているのだろうと思われた。
午後4時30分頃、次の駅フリアカに到着する直前に、ハッピーアワーでお飲み物はいかがですかと、メニューを持ってウェイトレスがやってきた。マチュピチュから戻って来てから、高山病からも回復してアルコール解禁となった私達は、2杯で1杯分の値段というハッピーアワーを歓迎して、ビールを飲むことにした。
フリアカからは別のフォークロアの楽団が入ってきて演奏。CDも売ってまっせとやる気充分だったが、バックパッカーでは売れるわけもなく、さっさとファーストクラスへと移っていった。
読んでいる本が佳境に入っているドイツ人の
アレックスにとって演奏は邪魔としか思えない。 |
そんな時に限って、張り付きで演奏する楽団。 |
楽団が去るころには、窓の外は夕景になってきて、暮れなずむ草原を、羊や牛追いの少年が家路に帰る姿が見られるようになった。
やがて湖の始まりのような湿地帯が見えてきた。これがチチカカ湖のようだ。遠くにはプーノだと思われる街の灯りもポツポツと見えてきて、終点が近いことを知らせていた。
そして午後6時過ぎ、暗くなったあたりが街の光に包まれ、プーノに到着した。予定通り、約10時間の旅路だった。
ホテルの予約は取っていなかったが、ホテルの人だという女性が迎えに来ていて驚いた。一緒にいた日本人の友人が先にプーノに来ていて、気を利かせてホテルの人を迎えに来させていたということだった。聞けば、他にも部屋はあるということで、全員が同じホテルに泊まれることになった。
薄暗くなったプーノ駅の周辺は、ホテルやタクシーの勧誘で騒然としていて、この女性がいなければ、面倒なことになっていた。ホテルまでは1ブロックということで、我々以外の人はホテルの人について歩いて向かうことになった。我々はホテルの人にシクロ(オートバイに荷台と座席をつけた物)をつかまえてもらって、シクロでホテルに向かった。
後からわかったことだが、ホテルの人だと思っていた女性は、旅行会社のエージェントで、結局彼女の手配するツアーで6人ともアマンタニ島のホームステイ体験ツアーを申し込むことになった。フロント辺りに張り付きで営業している彼女は、ホテルに入った情報を耳ざとく察知して、ホテルの人を装って迎えに来たようだ。徒歩なので、彼女の労働は案内するだけだし、シクロ代金は我々が支払った。それで6人のツアーと次の目的地、コパカバーナまでのバスの手配ができたので、おいしい商売だったろう。価格は、他と比べても遜色がないので、我々としては損をしたわけではない。ただ、ホテルの人間だと偽ってきた所が最初怪しくて、信用できるかどうかわかるまで、不安だっただけだ。到着時は、この女性がいたお陰で、余計な勧誘にひっかからずにも済んだ。ま、イーブンというところだろうか。この辺りが南米らしい。
こうして1日かけた移動は無事に終了。列車だったので、10時間も耐えられた。それにしても、1日の移動時間、最初は4時間がマックスだと思っていたのに、だんだん長くなっているような気がする。
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