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2007.02.19
ゲデGedi、ギリアマ族ムゼー・ランドゥの村でゴマを聴く
ケニア:ワタム |
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ケニアの東海岸への小旅行にでかける直前に、私たちは幸運にも俵さんという日本人男性に巡り会うことができた(俵さんについては「People出会った人〜ケニア・ナイロビ」を参照)。
日本でミュージシャンとして活躍されていた俵さんは、現在はケニアの音楽を深く学び、各部族の音楽を取り入れたケニア・フュージョンともいえる音楽を作り出すことで、部族間の争いをなくしケニアを一つにまとめていこうと音楽の視点から試みを行っている人なのだ。
俵さんに、今度ケニアの東海岸沿いを小旅行するのですがと話をすると、その辺りの村々を訪ね歩いては伝統音楽と舞踊を発掘して学んだ経験を持つ俵さんのこと、「それならワタムからゲデGediという村を訪ねるといいでしょう」という助言を下さった。
ゲデにはギリアマ族が住んでいて、ゲデ遺跡の近くにあるムゼー・ランドゥさんという村長さんの村を訪ねて、俵さんから紹介してもらったと言えば、伝統の太鼓や歌に合わせて踊るゴマを見せてくれるという情報をもらったのだった。
ワタムからゲデに向かうにはスーパーマーケットの前から出ているマリンディ行きのマタツに乗って10分程。運転手にゲデで降ろして欲しいというとゲデの街の交差点で降ろしてくれる。降ろしてもらった場所には、今来た道を引き返す方向に「Gede
Museum」という矢印の看板が見えた。
この交差点ではやや行き過ぎたらしい。今来た道を戻って300m程も歩くと、左手に「GEDE
National Momument」と書かれた看板があり、矢印が左向きに出ているので、その道を入って行った。
しばらく村の中を通るのだが、村も終わると道はひたすら林の中の一本道になる。
とにかく一本しか道がないので、ひたすら歩いていると、後ろから夫が「おい、本当にこの道でいいのか、誰かに聞いた方がいいんじゃないか、いいんじゃないか」とせっついてくる。いつものことだ。看板でこの道を示していて、ずっと一本道を歩いているのだから迷いようがないのだが、夫は看板が間違っていたかもしれない、村に入ってすぐに看板を見落としたかもしれない、と色々と不安に思っているようだ。
仕方ないので、先方から歩いてきたケニア人に聞くと、もっとこのまま歩いて行けという。夫も納得して、更に歩いた。
この一本道に入ってから歩くこと8分後、ようやく右に曲がる道の分岐点が現れ、そこに右折するようにと看板が出ていた。
この看板から4分後、目の前に門が見えてきて、ここがゲデ遺跡だった。ガイドブックの解説を読んでもピンとこなかったので、遺跡の見学はパスすることにして、遺跡手前の土産物屋にムゼー・ランドゥの村をご存知かと聞くと、土産物屋の手前を左に入ったらすぐだと教えてくれた。というか、そう話しているそばから、「ムゼー・ランドゥの村」という看板が見えているくらいだった。
村は生垣で囲まれた直径100m程のサークルの敷地になっていた。私たちが入っていくと、「ゴマの演奏を聴きたいのか?」と村の若者が近寄ってきた。俵さんの紹介でジョロ君を訪ねて来たのだがというと、奥からジョロ君を呼んできてくれた。
実はジョロ君はこの村には奥さんがいるが、自身は少し離れた別の村に住んでいるという。ミュージシャンとして活躍する一方で、ゴマに興味のある人を各村に連れて行ったり、もっと北の方まで旅のアテンドを行うなど、音楽絡みでの出張もしているらしく、この村で出会えたのは本当に偶然だったようだ。
ジョロ君は、「まず村の中を案内しましょう」と私たちを家の中に案内してくれた。
家は大人1人につき1つずつなのか、内部にはベッドが一つあるという作りだった。子供は子供だけで一軒の家に寝ているらしかった。ジョロ君の家には灯油で火がつくコンロがあり、他の人の家よりはちょっと近代的な感じがした。
キッチンは共同の煮炊きする場所が一箇所あり、村の至る所に樹木が生い茂り、涼しい木陰をあちこちに作っていた。この村で一軒だけ家の作りが異なるものがあった。通常は土壁と草葺の屋根なのだが、草葺で屋根から地面まで覆った蓑虫のような家が一軒だけあるのだ。
なぜこの家だけ異なるスタイルなのかを聞くと、この家は実は俵さんの家だという。俵さんはこの村に家を持っていたのだった。
俵さんは3年前の2004年からケニアの音楽を日本人にもっと理解してもらおうと、ケニアの音楽や料理などを実体験を通して紹介するワークショップを開いている。
日本人は不在で残念ながら会えなかった。 |
今年も8月に行う予定なのだそうだが、俵さんがここに家を持っている関係で、ワークショップに参加する日本人2名が村にテントを張って打楽器の指導を受けたりしているのだそうだ。確かに、村の真ん中には日本製のテントが2つ設置されている。
村の一角には様々な楽器が展示されていて、村の人は一つ一つ音を出して実演してみせてくれた。
どれも素朴な味わいのある楽器で、奏でるのもいいがインテリアとして部屋に置きたいような可愛らしさがあった。
こうして村を説明して回ってくれると、いよいよ待望の演奏会。村の真ん中の木陰にベンチがあり、そこが観客席になるようだった。
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私たち観客二人なんだけど、いいんでしょうか?
いいんです。楽しんでいってください!(とは言っていないが) |
やがて、ジョロ君や他の打楽器の人が太鼓を持って登場。
お、待ってました、待ってましたと喜んでいると、その後ろにぞろぞろと村人が並び始めた。おお、この村に入ってから出会った人全員じゃないか。ということは村人総出で演奏をしてくれてしまうということだろうか。
観客は私たちたった二人。こんな贅沢なことになってしまって、正直慌てた。い、いくらチップを支払わなくてはならないのだろうか。
やがて、力強いパーカッションの音が響き渡り、後ろの女性達が甲高い声で歌を歌い始めた。目の前で演奏されるゴマの迫力のある響き。体にビンビンと振動が伝わってくるようだった。
と右手から、今度は衣装をつけた女性と男性が登場。
激しい打楽器の乱打と「エラエー、エ、エー」と甲高い女性のコーラスを背景に、飛び上がり腰を振り、音楽同様に激しい動きが入っている。バックの打楽器はずーっと激しい調子で続くのだが、踊りは時にパタッと動きが少なくなり待機のステップに入る。しばらくすると、後ろからサンバホイッスルのような「ピーピッ!」という合図と共に急に激しく腰を動かしスカートの裾が水平になったままって感じになる。
静かに水面に浮かんでいた水鳥が、一斉に飛び立つような情景だった。
後半は男性が前面に出て踊る。高い跳躍力とこちらも激しいダンシングだった。
やがて音楽もますます激しくなり、ダンスはもう休むことをしらない激しい動きの連続になっていった。
この盛り上がり方がとてもいい。最初は静かに始まってだんだん熱くなってきてクライマックスを迎える。10分くらいの演奏だったのだが、演劇を見ているような盛り上がりのある展開で、演奏が終わる頃には自分も熱くなっていることに気づいた。へー、これがケニアの音楽、そして踊りなのだ。ボーマス・オブ・ケニアでみたよりも、もっと激しさが伝わってくるムゼー・ランドゥ村の伝統芸能だった。
ジョロ君がやってきた。「いやー、素晴らしかったです。今日はいい物を見せていただきました」とお礼を言うと、せっかくの俵さんのお客様なので是非お昼ご飯を食べて言ってくださいと招待してくれるではないか。いやはや、あまりのVIP待遇に私たちは恐縮しまくりだった。
お昼ご飯ができるまで、ちょっと太鼓のレッスンでもつけましょうかとジョロ君自ら太鼓のレッスンを施してくれる。全くわかっていなかったのだが、太鼓は手のひらでドンと叩く低音と、指先を激しく打ち付けて出す高音の2種類があり、高低の音を叩き分けながらリズムが加わってくるのだ。低音はまだ出せるが、この高音を出すのが最初のハードルだった。変に叩くと指の第二関節が太鼓の縁に当たって、指がくだけそうな痛みがくる。
で、高音が何とか出るようになったら最初の基本パターンの練習をすることになった。って、基本っていいながら、全部で20小節くらいはある。
しかも何でだか私は途中でリズムが取れなくなってしまうのだった。低い音は「ギー」、高い音は「ガー」と表現しながら、ジョロ先生は「ギーガーギガー、ギーガーギガー、ギーガーギガー、ギーガーギー」と根気強く教えてくれた。どうしてもつかえる所がある。「拍を考えてー!」と言われるのだが、どうしても取れない。で、ジョロ先生が足元にあるスチールをばちで叩きながら拍を取ってくれることになった。
しかーーーし。私の幼稚なリズムの頭では、「タン、タン、タン、タン」という拍の取り方をしてくれるとわかりやすいのだが、ジョロ先生は「タンタカ、タンタカ、タンタカ、タンタカ」という拍の取り方をする。お陰で、私の頭はますます混乱を来たし、手のひらや指はもう感覚が薄れ始めてきていた。
練習を始めて1時間。気が付いたらジョロ先生も席をはずして私は1人で練習していた。おおお、思わず夢中になってしまった。結局基本のパターンを習得することはできなかった。今までブラジルやスペインやフランスでも様々な音楽に触れて感動してきたのだが、聴くのとやるのじゃぁ大違い。たった20小節くらいの1パターンも習得できないなんて!でも、こうやって素晴らしいプレーヤーに直接指導してもらえたなんて素晴らしいと思いつつ、この人たちのリズム感は私のDNAとは絶対に違う。それを如実に感じさせられた1時間でもあった。
練習が済むと、お昼ご飯のお手伝い。実は私たちはアフリカでよく食べられているご飯に相当する「ウガリ」をまだ食べたことがなかった。ウガリは小麦粉やとうもろこしの粉を熱を加えながら水で練り上げる料理。
最初は細い棒の先が傘状になったものをクルクル回して、だまにならないようにしている。そうしてかき混ぜながら、水気がなくなってタポタポとしてきたら、更に粉(たぶんとうもろこし)の1kg入り袋をバサバサと加えていく。全部で10kgくらいは使っちゃったんじゃないだろうか。
で、最終的にはヘラで鍋の底からかき回して練り上げていく。私もやらせてもらったのだが、ヘラでかき混ぜるのには大変な力が必要だ。
しかも手早くかきまぜないと、この段階では底が焦げていってしまう。料理はもっぱら女性の仕事らしかったが、これはなかなか大変な仕事である。
ウガリにおかずを何品か用意してもらって昼食になった(詳しくは「本日の献立2007年2月19日昼」の写真をクリックしてご覧ください)。
本来は男性と女性は別の食卓で食べるのだそうだが、私は男性の方に混ぜてもらって食べた。
ウガリは噂とは違ってとてもおいしかったんだなぁこれが。何でだろうか。作りたて、家庭の味だったからだろうか。
ジョロ君には本当に気を使ってもらい恐縮するばかりだった。御礼にチップを渡すと大金でもないにも関わらず、神妙な顔をして「ありがとうございます」と受け取ってくれた。
俵さんが推薦するだけのことあって、ジョロ君は音楽を真剣に考えるまっすぐな瞳の人だった。8月のワークショップに向けてだんだん忙しくなっていることだろう。あの迫力のある演奏に磨きをかけているに違いない。
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