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2006.07.24
ウィーン人のお宅訪問。
オーストリア:ウィーン |
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モニカと出会ったのは2006年、今年の1月のことだった。アルゼンチンの南部にあるパタゴニア地方の氷河国立公園、エル・チャルテンで同じホステルに宿泊していたモニカは、食事時になると「ちょっとお邪魔していいかしら?」と私たちと何度か食事をして友達になった。
(出会った時の様子は「出会った人〜アルゼンチン」)
「今年の夏にオーストリアに行くからねー」というと「是非連絡して!向こうで会おうね」と約束していたのだ。
ウィーンに到着してしばらくして、モニカに連絡してみたら、近くに住んでいるご両親のお宅で夕食会を開いてくれるという。ということで、今日24日、ワイン1本持参で待ち合わせ場所に向かった。
中心地から地下鉄で20分くらいの所にある駅で待ち合わせ。しばらく待っていると、「ハッロー!」と変わらぬ笑顔で両手を広げながらモニカがやってきた。さっそく徒歩でモニカのご両親の家へ。可愛い庭のある一軒家では、モニカのご両親が待ち受けていてくれて、庭に出したテーブルと椅子に着席して夕食会が始まった。
お母さんは「今日のメニューは野菜のシュトルゥーデルよ。私も初めて作ってみたんだけど、喜んでもらえたら嬉しいわぁ!」と焼く前のシュトルゥーデルを見せてくれた。「初めてなんすかぁ?」と大笑い。ここら辺が日本人のメンタリティーと違う。日本人の場合、招くほうも招かれるほうも最高級のおもてなしを期待してしまう。結果、プレッシャーになって、外でお食事しましょうなんてことになっているのではないかと思う。メインは出合って楽しい時間を一緒に過ごすこと、と思えば、こういう肩の力の抜けたやり方でもいいんじゃないだろうか。私も知らないうちに招かれる事にプレッシャーを感じていたのか、このお母さんの一言でスーッと気が楽になった。
シュトゥルーデルはパイ生地のような軽い生地に野菜や肉や果物を入れて筒状に巻いてオーブンで焼いたオーストリアの郷土料理である。我々は自炊が多いので、野菜のシュトゥルーデルは初めて。さーて、どんな物が出てくるのか、楽しみ。
焼きあがるまで、みんなで色々とおしゃべりした。英語があまりできないご両親とドイツ語がわからない私たちの仲介をモニカがしてくれて、それなりに会話は成立していった。
お父さんは40年使っているというKodakのカメラを見せてくれた。これ、骨董品に近いじゃないですかぁ。というと、嬉しそうにアルバムを見せてくれたが、とても美しく撮影できている。因みに見せてもらったアルバムは、昨年70歳の誕生日を記念して、モニカが両親を連れてシドニーに行った時のものだった。
シドニーの美しい建物や公園、海岸などの写真の中に、ふと目を留めたのは、ホテルの部屋から写したという景色。窓から見えるのは隣の建物の壁と壁との間に見えるトタン屋根。お父さんは、「ね、これひどい景色でしょ。ホテルのちらしには、こんなきれいなファサードの正面の絵が描かれているのに、実際の部屋からの景色はこんなのだったんだ」と、ホテルのチラシもちゃんとアルバムにはってある。数ある写真の中から、この写真を取り上げて説明してくれるお父さんのキャラ、いいねぇ。
ここでシュトゥルーデルが焼きあがった。
プーンとバターの香りがするシュトゥルーデルは、包丁を入れるとサクッと軽い音がする焼き上がり。
一つはズッキーニと人参の煮込み、もう一つはFETAチーズという羊のチーズとブロッコリーが入っている。「生地はスーパーに行くと、こういうのが売られていてね。これを使うと簡単なのよ。それからチーズは、こういう袋に入っているの。」とキッチンから、生地やチーズが入っていた袋を持ってきて説明してくれた。お父さんが横から、「こういう生地は4つのスーパーで売られているんだ」という。私が、「どのスーパーのがいいんですか?」と聞くと、お父さんはウフフフと笑いながら、「それがさ、Hoferのが一番おいしいんだよねぇ。Hoferは安物スーパーだといって、みんな馬鹿にしているけど、この生地はここのが一番おいしいんだよ」と教えてくれた。
アツアツのシュトルゥーデルを切り分けると、お母さんは「端っこと真ん中とどっちがいい?」と聞いてくれた。
私は端っこ、夫は真ん中をもらう。わーい、何だか子供に戻ったような温かい気持ちがグッとこみ上げてきたのは自分でも不思議だった。
サクサクした皮とアツアツの具。あっさりしていて、いくらでも食べられそうだ。なくなりそうになると、「さ、もっと食べる?」とすかさず聞いてくる。人をもてなす事というのは、こういうことなんですね。お母さんのもてなし方は、一場面、一場面、私の心に忘れられないシーンとして積み重なっていった。
デザートが出るまでの間、またしばしおしゃべり。デザートも、手作りのアップルケーキだった。食べ終わると、お父さんが夫に見せたいものがある、とガレージに誘い出した。
私もこっそりとついていく。お父さんが自慢げに見せてくれたのは、オートバイだった。Adlerというドイツのメーカーで、買ってから50年経つのだそうである。日本製のバイクに比べると、座高が低く、お父さんのような小柄な人にはとても乗りやすいので、手放せないと言っていた。
買ってからずーっと、月に1回は全部部品を解体して掃除しているので、現役ばりばりなのだそうだ。オイルタンクから上に向けてビニール製の管が出ていて、オイルが透けて見えている。燃料メーターのかわりに、この管の中のオイルの量を見て、燃料の残量を知るという。
この会社は既になくなっているが、部品だけを扱っている店があるから、まだ乗ることができるということだった。このバイクに乗る時に装着するベルトも披露。おお、お父さん、だんだんノッテきたね。
今度はお母さんが昔のアルバムを持ち出してきた。二人は結婚してからここに住んでいるそうだ。若い頃は、同じ敷地内に別の人も住んでいたのだが、やがて買い取って、自分たちでリニューアルしたのだそうだ。その時の記念撮影アルバム。うわっ、本当に自分達でコンクリート練ってる写真がある。
お母さんは、「新しい場所にバスルームやキッチンを作ったので、その配管工事で、庭に穴を掘るのが大変だったの」って、普通、自分で配管工事しないでしょう。「あの頃はお金がなかったから、できるだけ自分達でやったのよ」と、にこやかに語っているけど、障子紙を張り替えるのとわけが違う。図面は専門家に引いてもらって、職人さんも入ってきているようなので、ちゃんとしたプロの手の入った家なのだが、そうした作業現場に家主が建ち混じって作業するというのがすごい。そういうことが許される時代だったってこともあるだろう。1960年代のことだ。私が庭でビー玉遊び(古!)なんかしている頃、このお父さんとお母さんはウィーンでコンクリート練っていたって思うと、愉快だった。
お父さんのお城。机の引き出しには、細々とラベルがはってあり
中にはパーツがぎっしり。 |
自作ラジオを聞かせてくれいる所。 |
「ほれじゃ、次はこっちへ」と、お父さんはホビールームにご案内。電気技師だったということもあり、ホビールームには見たこともないような装置が所狭しと並べられていた。なんじゃ、これは?
机の左端に置いてある魚群探知機みたいなのはオシロスコープといって、空中を飛んでいる電波を捉えて心電図みたいにモニターに映し出す機械だった。
お父さんは、色々な周波数に合わせて「ほら、ここだとラジオ電波、これはテレビだ」ととても嬉しそうに見せてくれた。
お母さんが心配そうに顔を出して、「ねぇねぇ、こんなこと聞いてて本当に面白い?面白い?」と聞いてきた。いやいや、お母さん、面白いですよ。この技術が面白いんじゃなくって、お父さんが。
こういう話を聞いて、「だから何なの?」といっちゃいけない。私がコンピュータ業界で働いていた時、お父さんに似たタイプの人たちがたくさんいた。普通の人にとっては、「で?」と思うような技術のしくみやプログラムについて知ることが無常の喜びであり、人に伝えたい、教えたいという思いにあふれている人。私は、こういう人にさんざん色々と教えてもらった。だから、お父さんもきっと職場ではよき先輩だったんだろうなぁということが容易に想像できるのだ。夫も技術系だったので、この手の人は好きだ。というわけで、お母さんの心配をよそに、我々はお父さんの話をとっぷりと聞かせてもらった。
おーっと、気がつけば9時半をまわっている。ホビールームから戻ってきて、そろそろお暇することにした。お父さんは、もしかしたら息子がほしかったのかもしれない。夫の手を名残惜しそうに握り締め、「いや、楽しかった」と言ってくれた。子供の頃に父親を亡くした夫の心にも何か去来するものがあったのか、なかったのか。
モニカとの再会と思っていたが、思いがけずご両親に出会い、久しぶりに家庭的な雰囲気を味あわせてもらえ、心が温まる夕食会だった。
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