アルゼンチン/コルドバ |
2005.11.25 コルドバ イタリア人旅行者2組
写真には3人しか写っていないが、もう一人の男性と合わせて4人のイタリア人夫婦2組とは、この2日前の23日のツアーで顔を合わせていた。
25日、再度ツアーで顔を合わせることとなり、合計20時間を一緒に過ごした人たちである。2組の夫婦も一緒に旅行しているわけではなく、偶然同じホテルに泊まり合わせた縁で、一緒のツアーを申し込んでいたようだった。
老獪というか、人生の酸いも甘いも味わいつくした人たちは、どこかユーモアのセンスと優しさがある。ここに写っていない男性と写真一番奥に座っている奥さんは、もとダンサーで今はダンスカンパニーを主宰しているということだった。40年も前に、ダンサーとしてレイ・チャールズと一緒に日本公演を周ったという話だった。そんなに前にもかかわらず、鮮烈な日本語の記憶を持っていて、「お気に召しましたか?」「良かった、良かった」というフレーズなどをさらさらと思い出しては、突然しゃべったりするので驚くやら、おかしいやら。
それに輪をかけておかしいのが、手前の夫妻の旦那さんだ。日本に行ったことがある夫妻から、片言の日本語を聞きだし、このツアーのあいだに「あのね」「おはよ、ごじゃいます」「良かった、良かった」が言えるようになった。
もう、それからというもの、ツアーでどこかに停車して、しばらく観光して車に戻る度に、3人のイタリア人が「あのね、良かった、良かった」と口々に言いながら車に入ってくるものだから、こっちはおかしくて仕方ない。どうしてそんなに笑うのかと聞かれても、説明に困るのだが、イタリア人顔で「あのね」なんて普通言わないでしょ。
ツアー自体はまずまずだったが、私にとって、この人たちと一緒だったことが何よりも面白かった。満足している人生で、いい年の重ね方をしている人たちに出会えました。
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アルゼンチン/バリローチェ |
「ご飯炊かないのに持ってきちゃったんです。
買ってもらえるとうれしい」と言われて「ごはんです
よ」を購入。ご飯が楽しみになった。 |
2005.12.20
M.Oさん(3回目の出会い)
バリローチェで人気の宿1004を訪ねて、フロントの人と話していたら、「あれー、岡田さんじゃないですか?」という声がする。
振り返って見ると、ペルーのリマで初めて言葉を交わし、クスコで同じ宿に宿泊したMちゃんがいた。(Mちゃんの最初の記事はこちらを参照→「出会った人 ペルー:クスコ」)
「私、チャリダーになったんです」という仰天の発言。普通のバックパッカーだった彼女は、ブエノス・アイレスで自転車を買い、サン・マルティン・デ・ロス・アンデスまでバスに自転車を乗せてやってきた。そして、サン・マルティン・デ・ロス・アンデスから約400km南にある、ここバリローチェまで4日かけてやってきたということだった。
最初はギアのこともよくわからず、3日間はロー・ギアで「進まないなぁ」と思いながら走っていたそうだ。3日目にフランス人のチャリダーのおじいちゃんに出会い、ヴィラ・ラ・アンゴストゥーラまで並走してもらってたどりつき、そこで自転車の不具合などを見てもらっている時に、ギアのことを教えてもらったそうだ。
チャリダーも初めてなら、キャンプをはるのも初めて。予算も限られているので小さなテントを買った。「人1人しか寝られないやつで、外から見ると棺桶みたいなやつで、そん中で寝てると、ファラオにでもなった気分なんです」とMちゃん。しかし、人は1人しかいなくても、大きな荷物があることを考えていなかった。外に出しっぱなしにして寝るわけにもいかず、足元と自分の横に荷物を入れて、ぎゅうぎゅうになって寝ているそうだ。しかも、自分の息が蒸気になって、テント内で結露して、テントをつたって下に水滴となっておりてくる。朝起きると、寝袋がびちゃびちゃになっているのも問題。
高い草が生えていない野原でトイレする時は、まわりに人や動物がいないか、常に心配。だから、周りに気を配っていたら、お尻の真下の棘のある草に気付かず、尻をぐっさりと刺してしまった体験もしたそうだ。場所が場所だけに、病院に行く気も起こらず、どうしようかと思っていたが、「昨日くらいになって痛みが引いてきたのでホッとしています。」と、本人にとっては、本当に辛くて真剣な問題なのかもしれないが、私たちは聞いていて、ゲラゲラと笑い転げてしまった。
「もう、シャワーとトイレがあって、乾いた所に寝られるだけで、私は幸せですよ、あーあ、キャンプやだなぁ」とMちゃんの嘆きは続く。それでも、しーんとした野原のテントの中で、地図を眺めているのは、とっても楽しいという。
21日の朝早く、Mちゃんは出て行ってしまったようで、お見送りはできなかった。南へ、南へ。新米チャリダーはウシュアイアを目指すそうである。ウシュアイアがブエノス・アイレスあたりで、また面白い話を聞かせてもらいたいなぁ。
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2005.12.21
ロバートとジンジャー夫妻
ロス・カンタロスの滝とフリアス湖を見に行くツアーで一緒だった、NY在住の夫婦。
カタマラン(フェリー)に乗っているとき、サングラスをかけた二人をてっきり日本人だと思い込み、会釈したら英語で話しかけてきて、日本人ではないことがわかった。
二人は金融関係の会社で働いているそうで、奥さんのジンジャーの専門は債権、旦那さんのロバートの専門は為替取引だそうだ。2週間の休暇で、ブエノス・アイレス、コルドバ、バリローチェ、そしてブエノスからNYに帰る予定だそうだ。ロバートは、休暇から帰ったら為替取引の新しいプログラム作成のプロジェクトが始まるという話だったので、私たちがアメリカで見た、為替取引の素人向けプログラムソフトについてどう思うか聞いてみた。彼は、思いっきり手の平を左右に振りながら、「あんなソフトで為替取引ができるわけがないじゃないですか」と言った。あらら、ちょっと買ってみようかと思っていたのに。まぁ、休暇中だし、そういう話ばかりもなんなので、今度は私たちのことを話した。
すると、彼らも、5年間働いてから半年間のブレークを取って、マレーシア、インドネシア、香港などの東南アジアを旅行して周ったことがあるという話になった。今回は2週間の休暇だが、あと2年働いたら、前回よりもう少し長めのブレークを取ろうと思っているそうだ。「だから、あなたたちは、私たちがやろうと思っていることを、先にやっているっていうことになりますね」と、ジンジャーが言った。違う国の同じような世代の人で、同じようなことを考えている人に会ったのは始めてだったので、面白いと思った。日本だと、一度会社を辞めてから再就職するのは、とても大変だと言ったら、アメリカでも状況は同じだということだった。しかし、彼らの場合は、スペシャリティーがあるので、ブレークを取っても再就職しやすいのだということだった。日本ではスペシャリティーがあったとしても、現場を離れた人は再就職するのは難しいのではないだろうか。日本の場合だと、専門性以前の問題として、会社に対する忠誠心を問われる傾向にあるのではないかと、ジンジャーの話を聞きながら思った。
ジンジャーは台湾系アメリカ人なので英語と中国語のバイリンガルだし、ロバートは国籍はわからないが、幼い頃に家族でパラグアイにいたことがあるので、母国語が中国語とスペイン語。で、今はアメリカで仕事をしているくらいだから、英語もかなりできる。というか、最初ネイティブかと思ったくらいにできる。英語圏とスペイン語圏と中国語圏を押さえているというのは、世界旅行者としてはとても便利だろうなぁ。一体、どんなスタイルで旅行をするのか、これから楽しみである。
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アルゼンチン/エル・カラファテ |
2006.01.02
杉野真紀子さん
初めに会ったのは、チリのサンティアゴから車で2時間離れた海岸沿いの町、ビーニャ・デル・マルでだった。
女性のライダーには初めて出会ったので、興味深く色々と話を聞いた。3年半前に始まったバイク旅行は、日本を出てからシベリア、ヨーロッパ、アフリカ、ネパールと続いた。ネパールで体調をくずして、一度日本に帰国。入院して体調を整えてから、1ヵ月後、今度はブラジルのサンパウロから南米・北米を回って、一応2006年の6月にアラスカで旅を終える予定だそうだ。
日本に一時帰国するまでの真紀子さんが周ったルート。これを持ち歩いて地図にマーキングしている
そうだ。ペンを入れる瞬間が誇らしげで楽しいだろうなぁと想像できる。 |
基本的にはテント生活だという真紀子さんに、「夜に外でテントを張るなんて怖くない?」と聞くと、「確かにアフリカでは、野生の動物に襲われる危険性があるので、ハムとかは持って歩けませんでしたねぇ」という返事が返ってきた。私は、女性一人でテントを張ったりして、誰かに襲われないかという意味で聞いたつもりだったのだが、ライオン相手に警戒していたとは思いもよらぬ回答だった。もちろん、バイクに乗るときの衣装を黒でまとめて、パッと見には男性か女性かわからないようにするなど、人間に対する警戒も怠っていない。
ルート決め、食料や燃料の確保、そして何よりも未舗装の道を何時間も走り続ける体力と精神力、そうした全ての経験が、真紀子さんを精悍な人に見せている。
そんな真紀子さんが、ある日、いつものようにサッパリとした調子で「彼氏がくるんですよ」とサラッと言ってのけた。聞くと、サンパウロの駐在員として働いている日本人の彼氏とは、頻繁にメールでやりとりをしているそうなのだ。ここ4日間、たまたま真紀子さんがメールできなかったら、彼は心配で心配でブラジルのサンパウロからチリのサンティアゴ行きの飛行機を予約してしまったということだった。「後でメールを送ったら、チケット取っちゃっていうんだけど、別に何もないから来る必要ないって言ったんですよ。そしたら、彼が『だって、もうチケット取っちゃったんだから、行くしかないじゃないか』って言って、また喧嘩ですよ。もう、いっつも喧嘩になっちゃうんだから」と言いつつも、それはいつもの真紀子さんより、ずっと柔和で嬉しそうな表情だった。
その日の午後、お目にかかった彼は、とても優しそうな人だった。この人が真紀子さんを精神的に支えているのかと思うと、何だかほのぼのとした気分になってきた。しかも、彼はバイクの会社にお勤めなので、精神的のみならず実際に頼れる存在なのだろう。
ビーニャでの真紀子さんは、メール交換する間もなく、宿を去っていってしまった。そして年明けて、1月1日、アルゼンチンのエル・カラファテの日本人宿に我々が移動してきたところ、扉を開けたリビングに真紀子さんの姿を見つけたのだった。
今回も真紀子さんは、私たちよりも早く出て行ってしまう。「記念に写真を撮らせてもらいたい、サイトにも掲載させてもらいたい」と言うと、「もちろん、どうぞ。彼とはとびっきりラブラブだって書いてくださいね」とニッコリ承諾してくれた。もちろん、言われなくても、お2人の熱い雰囲気は伝わってましたけどね。後の宿で聞いた話では、彼女は自身を「鉄馬美女」と呼んでいるらしい。ふふん、彼女らしくていいネーミングだ。
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2006.01.11
新谷真さん、松井絵美さん
エル・チャルテンから帰ってみると、藤旅館の宿泊者は面子が変わっていた。どんな新しい人でも、すぐに打ち解けられる気安さがあるのが日本人宿の良さである。
今回同室だったのがこの2人。新谷さんが体の調子をくずしたため、藤旅館で体調を整えてから旅を続けるということで、静養中の2人はゆっくりとエル・カラファテを堪能しており、チャルテン帰りでぐったりとして動く気力が無い私たちとは、言葉を交わす時間が多かった。
新谷さんは日本の白馬でパラグライダーやカヌー、ラフティング、ウォールクライミングのインストラクターをしている。シーズンのあるスポーツなので、シーズンオフになると世界中を旅行して周るライフスタイルだそうだ。
パラグライダーといえば、ペルーのリマ市内には、オシャレなスポットとして知られる海岸沿いのミラ・フローレスという地区がある。瀟洒なマンションや新しいショッピングモールが立ち並ぶ海岸線の上を、マンションの住民や歩道を歩く人に手を振りながら悠々と空中散歩するパラグライダーを見たことがあった。新谷さんに聞くと、こうした居住区を飛べるミラ・フローレスは世界でも珍しく、それゆえに有名な人気スポットなのだそうだ。また、アルゼンチンのバリローチェにあるオットー山の頂上付近でも、風を待っているパラグライダーの一団を目撃した。これについても、一定以上の強さの風になってしまうと飛べないので、風を待つのはよくあることだという説明だった。
新谷さんは、パラグライダーが日本に入ってきたばかりの頃から飛んでいる人だ。最初はハングライダーの経験者がパラグライダーに流れてきて、あっという間に人気に火がつき、未経験者も巻き込んで大ブームになったスポーツ。そういえば、友人から「体験パラグライダーをやりに行こうよ」と誘われるくらい、私にさえその波は来ていたことを思い出した。
そのキャリアを活かして、新谷さんはかつてパラグライダースクールを地元で開いたのだが、これはビジネスとして難しかったそうだ。パラグライダーは天候に左右されやすいので、折角大量の予約が入っても、その日の天候が悪いと全てキャンセルになり、売り上げが安定しない。では、教える人の数を増やして規模を大きくすれば安定するのでは?と質問すると、パラグライダーをやる人は職人的な側面があるので、高い技術を教えてあげると皆独立してやりたがる。高いレベルの教官を揃えてスクールを行うことが難しいのだという。ということで、今は白馬でインストラクターをして、分野もパラグライダーに留まらず他のアウトドアにも広げているということだった。
キャリアとビジネスの観点から見たアウトドアの話って、なかなか聞けるもんじゃない。我々は専ら、お客としてアウトドアの世界に触れることが多いので、こうした主催者側からの話は興味深かった。
そんな我々の横で、「ふん、ふん」とうなずきながら、ちょっと難しい顔で話を聞いているのがお連れの松井さんだ。松井さんは、20歳に手が届こうかという年齢。世界の他の地域と比べると、年齢層の高いバックパッカー、長期旅行者が多い南米において、日本人宿の最低年齢宿泊者記録(そんなものがあれば、の話)を塗り替えまくっているに違いない。若い時期のこうした南米旅は、おおいに刺激的だろうが、南米を旅しているおっさん、おばはんにとっても松井さんの存在は、「おお、若い!」という刺激を与えている。
この2人には、この後、ブエノス・アイレスのショッピングモール、ガレリア・パシフィコでばったり再会。新谷さんは、矢継ぎ早に質問して、あっという間に我々から必要な情報を引き出し、我々お奨めのタンゴショーに行くことをその場で決定していた。この辺りの決断力が魅力的だ。横ではニコニコと松井さんが微笑んでいた。何だかいい感じの2人だ。ブラジルの街角でばったり遭遇、なんてことがあるといいですねぇ。
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2006.01.11
小林慎治さん、宮澤理恵さん
「いやー、疲れましたよー、でも楽しかったなぁ」という声に聞き覚えあり。
居間に行ってみると、夜10時過ぎに旅館に戻ってきたのは、今まで何度か顔を合わせたことがある小林さんと宮澤さんだった。「おお、又会いましたねー!」と再会を喜ぶと同時に、今回こそはサイトで紹介させてもらいたいと、疲れているだろう2人と記念撮影させてもらった。
2人と最初に出会ったのは、グアテマラのアンティグアという町の日本人宿「ペンション田代」でだった。サイトの更新ネタもたまってきていて、あんまり人とおしゃべりを楽しんでいる場合じゃないという状況だった我々は、部屋に引きこもって作業し、食事も黙って自炊して、さっさと部屋に引き上げるという日々を送っていた。それでも、自炊派の小林さんたちとはキッチンで顔を合わせることが多く、西回りで世界旅行中で南米にはアフリカから来たという話なんかを聞いていた。
そうそう、この2人、あれ持ってるんでビックリしたんだっけ。あれ、親子丼作るときの柄が上方向に付いた片手鍋。「そんな物持って、世界周ってるんですか?」と思わず聞いてしまうと、今回の旅行中でたまたま日本に一時帰国した時に買ってきたのだと、とっても嬉しそうに小林さんが説明してくれた。また、この人たちは、東急ハンズで売っていそうなスッとした筒型の調味料入れを5つくらい持っていて、それぞれの筒には「塩」「砂糖」とか手書きのシールが貼ってあった。宮澤さんは、日本の料理の本をさっと見ては、次の手順に進んでいた。当時、旅を始めて我々は8ヶ月目。各地で買った調味料はサイズもデザインもバラバラで、くたびれたスーパーの袋にいっしょくたに入っていた。料理の味付けは、その時の気分で、お互いに「甘すぎる」「しょっぱすぎる」とケチの付け合いが絶えない日々だったので、スマートな調味料入れ、定量の味付けを心がけている2人にハッとさせられたのが、私の中で大きな印象として残っている。
次に出会ったのが、ボリビアのコパカバーナという小さな村。ここには4面ガラス張りの展望台部屋が人気の「フロレンシア」という宿があり、我々は思わずゆっくりと滞在してしまった。やっと宿を出ようとタクシーを呼んでいる間に、この2人が宿にやってきたのだった。我々のタクシーが来てしまったので本当にすれ違いだったが、2人は「いってらっしゃーい」と温かく見送ってくれたのが嬉しかった。
そしてクスコ。あの頃、クスコのペンション八幡は満室だった。夜になるとロビーの椅子にも床にも人がいっぱい。八幡さんを囲んでおしゃべりする日々だった。で、2人とは一緒の空間にいたにもかかわらず、なかなか直接話ができない、そんなクスコでの再会だった。
次のコンタクトは、人を介してだった。我々のコンピュータが壊れてしまった時、同じく知り合いのカメラマンの明さんを通じて、お2人に相談させてもらったことがあった。その時初めて、2人がシステム・エンジニアだということを知ったのだった。
4回目の出会いになるエル・カラファテで、やっとゆっくり話をすることができた。2人は2004年7月に日本を出発。アジア→アフリカ→ヨーロッパ→北中南米を周って2006年1月末に帰国。これを書いている今、2人からは無事に日本に帰国したとのメールが届いていた。冒頭の調味料の話から始まり、計画通りに1年半できちっと旅を終えて日本に帰るなど、いつも几帳面な2人は周りの人からの信頼も厚く、精神的にも大人だった。世界各国で培った、忍耐力、交渉力、体力?を武器に、新しい職場で頑張っていってほしいと心から願っている。
お2人のサイトは今後も残しておくと連絡がきましたので、リンクしときまーす。
We love travel @世界一周 VAMOS南米編
http://www.welovetravel.visithp.jp/top.html
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アルゼンチン/エル・チャルテン |
2006.01.10
Monika Obfolterさん
フィッツ・ロイ山で有名なエル・チャルテンの宿Alberge Patagoniaで同じ部屋になったモニカは、オーストリア人にしちゃぁ表情豊かで柔らかい感じの女性だった。
食堂で我々が食事していたら「ちょっと隣にお邪魔していいかしら?」と、自分のパスタの皿を持ってやってきたので、おしゃべりしながら夕食を共にすることになった。
現在の仕事はオーストリア航空のフライト・アテンダント。「でもね、初めからなりたくてなったわけじゃないの」とモニカは語り始めた。
かつては旅行会社の海外支店勤務で、半年ごとに世界中の様々なリゾート地で働くという生活を送っていた、とても気に入っていた仕事だったそうだ。しかし、勤務先がモルディブになった時にどうしても耐えられなくなってしまったのだという。「モルディブって、あの海のきれいな、皆の憧れのリゾート地の?」と聞くと、あのモルディブだという。毎日、毎日、海に囲まれて、同僚はカップルが1組いるだけで、お客さんと言えば腐るほどハネムーナーばかり。そんな中で、自分は出会いがあるわけでなし、美しい海やロマンチックな夕焼けは、逆に寂しさを募らせる結果となっていった。遠く母国にいる友達に話しても、「モルディブなんだから、楽しいに決まっているでしょ?贅沢言わないの!」という反応で、なかなか理解してもらえず、Tシャツにペイントして寂しさを紛らわせる毎日が続いた。心配した母親が訪ねてきた時にTシャツは18枚にもなっていたそうだ。
そんなわけで勤務先の変更を会社に申し出たのだが、会社は聞き入れてくれず、辞めるしかなかった。この辺が日本の会社と比べると対応がシビアだなぁと思った。私がかつていた会社では、本人が切実に希望すれば配置転換してくれた。中途からの雇用チャンスが大きい社会は、人材が流動的だということでもあり、人に対する待遇が薄くなる傾向にあるのだろう。日本人から見れば理不尽だと思えることだが、モニカの口調は理不尽だというよりも、会社と意見が一致しなかったから残念だったけど仕方ないね、という感じだった。
その後、フライトアテンダントをしている従兄弟の勧めで、現職についたということだった。ここは日本とは逆だ。日本はいわゆる生え抜きに対しては厚遇するが、中途には非常に厳しい。日本のフライトアテンダントの世界なんて、社会に出て6年も経った未経験者を採用するとは思えない。まぁ、どちらの社会も一長一短がある。
もともと色々な国の文化を見聞きするのが好きなモニカは、今の仕事もまずまず気に入っているようだった。今、楽しみにしているのは、日本へのフライト。オーストリア航空は日本の航空会社と提携して、近々ウィーンから函館、函館から福岡、福岡からウィーンという経路で飛行機を飛ばすことになったそうだ。函館から福岡までは日本の会社の飛行機に乗ってサービスを行うという。もしかしたら、この路線も自分の担当に入ってくる可能性が高いので、それが楽しみなんだそうだ。
日本には1度だけ行ったことがあるけど、普通の観光はしていないという。その時は飛行機のストップオーバーを利用したもので、アジアからオーストリアに帰る途中で立ち寄っただけ。成田空港に降りたつや否や、即刻東京に出て、新宿や六本木で夕食を楽しんだ後、深夜中開いているマクドナルドで粘り、明け方、六本木から築地まで歩いて、市場で朝ごはんを食べて成田へ戻るという強行スケジュールだったそうだ。「いやいや、それは立派な観光で、モニカは私も見たことが無いリアルなTOKYOを見たと思うよ」というと「そうなんだぁ」と嬉しそうに笑った。都会の観光は、旧所名跡を周るよりも生きている街に触れるほうが、よっぽど印象に残る場合が多いモンね。そういう意味ではモニカの東京体験は、的を得ていると思った。これから北海道や九州に仕事で訪れれば、私よりも日本の観光スポットに詳しくなるのは必須である。自分が訪れる機会ができたら、モニカに聞いて行くのも面白いかもしれないなぁ。
短い出会いだったが、明るくて人懐っこいモニカとは長い知り合いのような気分になれた。最後に写真を撮るからというと、お気に入りの花のついた帽子をかぶってきた。メルヘンなモニカに、今度はどこで出会えるか楽しみである。
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アルゼンチン/ウシュアイア |
2006.01.19
Mike Grahamさん
南アメリカ大陸の最南端の町、南極観光の出発地として知られるウシュアイアの寒空を、ブエノス・アイレス行きの航空チケットを探して歩き回っていた時だった。
インターネット電話屋のガラスのブースの中で、通りを眺めながら電話で話している白人男性を見て、「あれ?マイクに似ているなぁ」とちょっと足が止まってしまった。電話中の男性は、こちらと目を合わせつつも「???」という表情だったので、恐らく人違いだろうとそのまま通り過ぎた。夫にも「ねぇねぇ、コスタリカで出会ったマイクがいたような気がするんだけど」と言ったが、「んなわけないじゃん。それより、航空チケットどうするかが先だろ!」と一蹴されてしまった。
この時期のウシュアイアはハイシーズンだ。航空チケットはアルゼンチン航空のオフィスではかなり先までなく、ラデ空軍航空のオフィスは午後3時までシエスタで閉まっているということで、我々はラデ空軍が開くのを向かいの通りから階段を上がった2階のカフェでコーヒーを飲みながら待つことにした。
と、先ほどインターネット屋で見た男性が、通りからこちらを見上げて手を振りながらカフェに入ってきた。やはり、コスタリカで出会ったマイクだった(マイクとの1回目の出会いはこちらから)。早速、この驚きの再会を祝してコーヒーでカンパイした。私が立ち去った後、マイクは「そうだ、コスタリカで出会ったんだ!」と思い出し、電話相手の母親に興奮してそのことを語っていたのだと言った。
コスタリカから同じく南下している彼だが、クリスマス近くにチリのサンティアゴまで到着した時に、ふと、もう4年もクリスマス時期に実家に帰っていないことを思い出し、急遽イギリスに帰ってクリスマス休暇を家族と過してから、年明けにチリのサンティアゴから続きの旅をしているのだという。南米からヨーロッパの航空運賃って、そんなに安くないわけですよ。なのに突然クリスマスで帰っちゃうなんて。しかも、もう4年も家族とクリスマスを共にしていないのなら、5年目も過さなくったって、6年目でいいじゃないかと思うのだが、彼にとっては、どうしても帰らなくっちゃという気分だったらしい。
じゃぁ、お金に糸目をつけない旅行をしているのかというと、決してそうではなく、我々がブエノス・アイレスに行く航空チケットが見つからないという話をしていたら、自分はそもそもバスで行こうと思っていた。夜行バスを使えば、宿泊費も助かるしね。なんて言っている。自分が使いたい所にはパッとお金を使い、そうでない場合は真剣にセーブする方法を考えている。で、人がどう行動しようと、自分は自分で楽しむ。こうした考え方が根底にあって、それを人がどう思うかなど気にせずに、まっすぐに話してくる。これがマイクの魅力的な所だ。見栄を張るのでなく、しかし他人には温かい気配りをしながら、堂々と自由に生きているように見える。だからこちらも、素直な意見が言えるし、言ったところで変にマイクが傷ついたりしないかと心配する必要もないので、話していて非常に楽だし、楽しい。
どことなくミスター・ビーンを思い出させるのは、お国柄なのだろうか。ある人から「イギリス人には、変な人が多いのよ。変な人で、話や行動がおかしくって、ついつい魅かれちゃうのよね」というのを聞いたことがあったが、マイクにはそれを感じる。こうやって書いていても、マイクとの会話を思い出しただけで、頬がゆるんできてしまう、そんな人なのだ。
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2006.01.23
児玉 泰仁さん、由美さんと
上野亭の甘えん坊トゥルーチャ
上野亭に我々よりも先に来ていた宿泊者の中で、どーこかで顔を見たことのある女性いた。そうそう、グアテマラのパナハッチェルの日本人宿「ツーリストホーム村岡」の宿泊者記念写真の中で見たのだった。
数ある記念写真の中でなぜ由美さんを覚えていたかというと、村岡さんから「この夫婦はもう5年くらい旅行している夫婦でね」という話を聞いていたからだと思う。ご本人達に確認してみると、やはり村岡邸に宿泊してたことがあるということだった。同じ世代でそんな夫婦がいるのかという驚きとともに、世界のどこかでいつか会えるのではないかという期待を持っていたので、ここで会えた時には非常に嬉しかった。
村岡邸での写真の他にも、この夫婦については事前に話を聞いたことがあった。それは、アルゼンチンのバリローチェで出会ったチャリダー(自転車で旅する人)Mちゃんからだった。ブエノス・アイレスでチャリダーになることを決意したMちゃんは、同じ宿に宿泊している釣り好きの夫婦に釣りを習って、いざという時は自給自足の生活をしようと決意していたのだった。その時の話を聞くと、「そうそう、Mちゃんに釣りを教えたんだよね。さおの持ち方と投げ方。それで宿の部屋でさおを投げる練習も一緒にしたんだよねー」ということだった。
長期旅行者で釣りの技術をMちゃんに伝授したというたった2つの情報しかなかったので、この2人に対して先入観やイメージというものは特にないつもりだったが、実際に会ってみると、あまりに2人の肩の力が抜けていて驚いた。私は、知らないうちに、きっと旅のウンチクをいっぱい語るに違いないなどというイメージを持っていたのかもしれない。
「そうそう中東といえば・・・」「あ、ドナウ川ではねぇ」と、簡単に思い出すエピソードがワールドワイドで、確かに話は幅広いのだが、それが抹香臭い話になったり教訓めいたりしていない所がいい。それどころか、面白いのだ。これねぇ、なかなかできそうでできないことだと思いますよ。由美さんは編集者、泰仁さんは広告関連のお仕事をされていたということだから、人の心をつかむ技ってのは、知らずと習得しているんだろうなぁ。
2人の話で面白かったのは、ドナウ川のある町での釣りの話。その町では、釣りは主婦の仕事なのだそうだ。エプロン姿の奥さん連中が、顔を合わせて話すことは、「あのえさだったらよかった。」とか「あのポイントがよく釣れた」という釣り情報だというから、人の噂で井戸端会議しているよりもどれだけ健全で生産的なことか。だんなさんは、専らお家でお留守番しているのだそうだ。
そんな町の民宿に宿泊した2人は、ある日奥さんと一緒に釣りにでかけたそうだ。自分のテリトリーに誘った奥さんは、色々と2人に情報を与えて、3人で釣りを開始。しかし、いざとなると泰仁さんばかり釣れてしまう。宿の奥さんは、だんだん無口、そして不機嫌になり、とうとうその日は泰仁さんの大漁で終わってしまったらしい。エプロン姿で釣りをする宿の奥さんやら、その日の夕食に出た魚を、一体どんな顔で食べたのか、宿の旦那さんの反応はどうだったのか。その複雑きわまりないシチュエーションが目に見えるような話で、大変面白かった。
他にもたくさん面白いエピソードを聞いたのだが、それはお2人のブログで見ていただきたい(http://ameblo.jp/yasuyumi)。
ありのままの目線で、素直に旅を楽しむ、そんな余裕はやはり5年という歳月がもたらしたものなのだろうか。2人の旅はまだ続く予定だそうだ。今度、どこで出会えるのかが楽しみだ。
(おまけ)
泰仁さんの膝に頭をすりつけて甘えているのは、上野亭の皆のアイドル「トゥルーチャ」である。食事をしている人の膝の上に頭を乗せて、ウルウルした目で見つめ「ね、あなたは私に何かをくれるんでしょ?」と見つめる高度な技術を持っている。私は、泰仁さんは時々このトゥルーチャ攻撃に負けてしまっているに違いないと推測している。トゥルーチャは、他の犬に対してはからっきしの弱虫である。私が散歩中、他の犬に絡まれた時は、当のトゥルーチャは首輪を残して走り去っていってしまった。トゥルーチャ、強い子になれ!でも、こんなに皆に可愛がられちゃぁ難しいだろうなぁ。
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アルゼンチン/ブエノス・アイレス |
2006.02.01
鈴木 徹さん
津軽三味線 小山流正貴会
ブエノス・アイレスの宿、ビクトリア・ホテルの最上階のフロアは、我々が入った時には、ほぼ全員が日本人だった。
お隣の部屋はドミトリー扱いの部屋で、数人の若者が集まって宿泊しているようだったが、その中の1人が徹(てつ)さんだった。
キッチンから猛烈ににんにくのいい香りがすると思ったら、徹さんが「いや、久しぶりに肉を食うんですよ」と本当に嬉しそうに言っていて、それを聞いているだけでこっちも嬉しくなってしまうくらいの快活さだった。あー、あたしもおばはんになってきて、こういう感情からホストクラブに走ったりするんだろうねぇ、と妙に納得するくらいに徹さんは爽やかだった。
そんなある日、隣の部屋から三味線の音が聞こえてきた。しかもかなり太い音なので津軽三味線だ。そういえばどこかで「三味線を持って旅をしている青年がいるんですよ」と聞いたことがあった。強くて速いバチさばきの曲に始まり、日本の民謡、童謡、はては洋楽まで、様々な曲が聞こえてきた。部屋の外の廊下の椅子に座って、本を読んでいた私は、弾き終わって出てきたのが徹さんだった時にびっくりした。まさか、三味線世界旅行をしているのが徹だんだとは思っていなかったからだ。「ほほー、徹さんだったんだ。話には聞いたことがあったんだけどね」というと、徹さんはちょっと照れながらも、今度の日曜日にドレーゴ広場近くの路上で腕試しをしようと思っていて、と語った。
じゃぁ、見に行かなきゃ。ということで、毎週日曜日にアンティークなどの市が立つドレーゴ広場にでかけてみた。午後、どこからともなく三味線の音が聞こえてきた。お、やってる、やってる。
この通りは大道芸人の宝庫である。といっても、年季の入ったタンゴお笑い芸、タンゴダンスショー、バンドネオンの演奏など、全て御当地名物のタンゴに絡んだものばかりで、そんな中で超異国の文化を披露しているのは、徹さん唯1人だった。
日本からこんな離れた所で、1人で日本の芸術を発表している人がいる、それを見ているだけでも、もう不思議な気分がいっぱいな私たちだった。
当の徹さんは、曲の中に陶酔しているかのように目をつぶり、炎天下の中、額からたれる汗もかまわず、一心不乱に引き続けているのだった。
夜、宿に戻ってきた徹さんに会ったので、今日の反応はどうだったかと聞いてみた。「いや、予想したよりも多くの金額が集まったんですよ」ということだった。洋楽も弾いたのだが、それよりもやはりバチさばきの速い日本の曲に人気が集まっていたという。さすがタンゴの国。音楽をコラッソーン(心)で解する国の人は、芸術の趣向もレベルが高いようだ。
この後の週にも弾いていたら、地元のテレビ局の日本の文化紹介コーナーに出演しないかという話もきたそうだ。ただし、この時ディレクターらしきその男は名刺を置いていっただけで、徹さんの名前を聞くでもなし、出演したかったら俺に連絡しろという風に受け取れたのが気に入らなくて、そのままで終わっていると言っていた。あくまでも誇り高い日本男児なのだ。これからも、色んな所で腕試ししたいと語っていた。世の中には本当に色んなスタイルの旅があるのだなぁと、またまた感心させられた。
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アルゼンチン/プエルト・イグアス |
2006.02.09
川添 賀一(よしかず)さん
プエルト・イグアスのユースホステル「ピーター・パン」で日本人の旅行者とまったりと話をしていたら、金髪のヨシさんが「どーもー、お疲れさまーっすぅー」と入ってきた。
めちゃくちゃ元気一杯のヨシさんは、他のメンバーとはブエノス・アイレスの日本旅館で既に知り合いだったので、すぐに輪に入ってきてみんなとのおしゃべりに参加し始めた。
金髪って、一体何者?と思っていたのだが、ヨシさんはこれまで15年間アメリカで料理人として働いたキャリアの持ち主。インターナショナルな料理を出す店で、割烹を中心に中華、フレンチなど様々な分野の料理を手がけているということだ。上司はフランス人、同僚はメキシコ人が多いので、基本会話は英語なのだが、素材の名前はフランス語、同僚との話はスペイン語と職場環境もインターナショナルなのだそうだ。
日本の社会に頼らずに、自分の腕とキャラクターでこの15年を生きてきた人というのは、底抜けに明るいたくましさを持っていると感じた。国籍の違う人の中で働くのって大変じゃないですか?と聞くと、「そうなんですよー、僕のフランス人上司なんて、いつも『オー、ノー、YOSHIIIIIII
!』って頭かきむしってるんですよぉ」とそのフランス人上司の真似をした。見たこともない人なのに、目に浮かぶようなその情景に大笑いしてしまった。
宿の日本人メンバーと一緒に、イグアスの滝のアルゼンチン側見学に行った。あの日はとても暑い日で、滝のしぶきをあびてはしゃいだ後に木陰のベンチで休んでいると、誰かが「ちらし寿司が食べたいですねぇ」といい始めた。それで、ここでイグアスロールを作って売ったらいけるんじゃないかという話になった。なにせプロのヨシさんがいるので、みんな何故か強気になって、やっぱ具はトゥルーチャ(鱒)でいきますか、などと勝手に息巻いて、なかなか盛り上がった。
この後、サン・パウロの日系人が経営する食堂で食事をしているヨシさんに遭遇した時、ヨシさんは本日のおすすめの牛テールシチューの作り方を熱心に聞いている所だった。ああ、こうやって旅先での料理を自分の肥やしにしているんだなぁ、この人は。と感心するとともに、突き詰めていきたい好きな分野があるというのは本当に羨ましいことだと思った。
今回の旅行は4月まで。旅にでかける前の店から、戻ってきてほしいとオファーも来ているそうだ。今度はお菓子作りに興味があるんで、同じお店のそっちの方面に行けたら行きたいということだった。何かフツーの料理人で終わらないような気がする、そんな期待を抱かせてくれる人だった。
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2006.02.09
澤村 尚徳さん
「ピーター・パン」で同室だったのはこの澤村さん夫妻だった。お2人は、スペインで1年間のスペイン語学習を終えて、モロッコに1ヶ月旅行してから南米に入って3ヶ月になるそうだ。
以前はモノ系の雑誌の編集者をしていて、現在はフリーの編集者として現役なのだそうだ。編集のことがよくわからない私たちは、「編集者の人っていうのは紙面のデザインもするのですか?」「それはデザイナーの仕事ですね」「あ、じゃぁ文章を書く人のことですか?」「それはライターが書くんですね」「ええっとぉー、それじゃ何をする人なんでしょうか?」と子供相談室みたいな会話になってしまった。澤村さんから聞いた話を私が理解した所では、編集者とは企画を立てて、それが紙面になるまでの一切のコーディネート及びディレクターを務める人のことのようだ。あ、皆さんそんな事知ってました?
コレを書いている今になって、そういえばこの後、我々はマドリッドに行くんだということに気付いた。あの時もっと話を聞いておけばよかったなぁと後悔しきりなのである。
ところで澤村さんとの写真を撮っている時に、背後霊のように私の肩から出ているのは、上で紹介したヨシさんである。偶然にも物凄く気持ち悪い角度で写っていて、さぞやヨシさんはお喜びのことだろう。
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2006.02.11
大谷 敏夫さん
大谷さんに最初お会いしたのは、エル・カラファテに滞在している時のペリト・モレノ氷河ツアーのバスの中でだった。
前の日に大阪出身の若い女性にエル・カラファテの町で出会い、宿を探しているというので、我々が宿泊している藤旅館を紹介したのだが、満室で、その後大谷さんともう1人の日本人男性とめぐり合って、別の宿に3人で宿泊して今日のツアーに参加しているのだということだった。その時は、あまりお話もできなかったのだが、定年退職されてから自由に世界中を旅行しているということを聞いていた。
その後ウシュアイアの上野亭という日本人宿に宿泊していたら、南極ツアーから戻ってきた大谷さんに再会。大谷さんはウシュアイアの旅行代理店のラスト・ミニッツ(最後の大売出し)で南極ツアーをUS$2750(通常価格US$4000)を見つけて行ってきたというのだった。
それから、ブエノス・アイレスにいた時に、日本人宿の情報ノートで推薦していた食べ放題ののお店でもばったり。イグアスの滝のアルゼンチン側で滝を見ていたら、そこにも大谷さんがいて、そして今日、イグアスの滝のブラジル側に向うバスに街道の途中から乗ったら、大谷さんが座っていたという、何と5回も偶然に出会ってしまった人なのである。
大谷さんに「こんなに出会うのも何かの縁なので、是非サイトで紹介させてください」とお願いすると、「じゃぁねぇ。家で居場所のない男とでも紹介しておいてくださいよ」と快く承諾してくれた。
6年前に定年退職されてからは、アフリカ、アジア、ヨルダン、イスラエルなどの中東、そして今回南米と、3ヶ月くらいずつ旅をしているそうだ。大谷さんの旅のスタイルは、完全な自由旅行だ。少ない荷物で、行った先で細かい情報を手に入れて、好きなように行動しているそうだ。宿も特に決めておらず、町についてからガイドブックを頼りに訪ねてみるという。大谷さんと同じような年齢の外国人でこういう旅をする人は普通にいるが、日本人では会ったことがない。
日本の60代の旅行といえば、旅行代理店のプランに乗り切ったお仕着せの旅が多い中、大谷さんのように気軽に自由に旅をしている人がいるというのは、いよいよ日本も成熟した旅行文化になってきているようで、非常に喜ばしい気がした。
南極のツアーから戻ってきた時に、、「いやー、南極なんてさ、皆夫婦できてるんだよねぇ。俺もかあちゃんと来ればよかったなぁとつくづく思ったよ。でもさぁ、南米っていったら、ちょっと宿もちゃんとしていない所に泊まることもあるし、危険も多いから、連れてこられなかったんだよね」と仰るので、「だったら、奥さんとはヨーロッパに行ったらいいじゃないですか」と言うと、「ヨーロッパへは年を取ってからでも行けるでしょ。でも南米は若いうちにいっとかないとキツイでしょう。だからね、今は南米に行っとこうと思ってさ」という返事が返ってきた。おおお。この発言に我々はハッとさせられた。これから行くエル・チャルテンやパイネ国立公園のトレッキングを思ったら、もう40代の我々も南米はぎりぎりだと思っていたが、大谷さんの論法によれば、あと20年は南米が楽しめることになる。そうだ、自分で限界をもうけて可能性を狭める必要はないのだ。目からウロコの発言で、これ以降、我々の間で時々この時の会話は教訓として話されている。
旅先での話で色々と面白いエピソードを聞いたのだが、中でも今回の私たちとの偶然の出会いのようなことが、他でも何回かあったという事に話が及んだ時、エジプトでの出会いについてのエピソードを話してくれた。それはエジプトのアレクサンダーの墓を訪ねた時のことだったそうだ。だんだんと地下の墓へと降りていって、最後に墓に着いた時に、本当に偶然にツアーに参加している会社の先輩に出会ったのだそうだ。「あの時は本当にびっくりしたよ。墓場でしょ?一瞬、あれ?俺、生きてるのかなぁなんて思っちゃったよ」と話してくれた。
旅行というのは、その人その人によって思い出や印象が違う。だから旅先で出会った人の話は、自分がその場所に行ったことのあるなしにかかわらず面白く感じられる。そしてまた、ゆったりと話が聞ける時間を持てるのも、自由旅行者の特権なのだ。自由旅行というと若い年代の人がまだまだ多いが、これからもっと我々の年齢以上の自由旅行者が増えると、日本人宿の話題もバラエティーに富んだものになっていくだろう。
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